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回航記 冬の瀬戸内大分別府から太平洋千葉館山へ
ARGO号シングルハンド スリリングな8日間
レポーター  西山隆
 今年、1月から通算して3600海里以上の長い距離をヨットで帆走った。南は沖縄宜野湾、北は千葉館山、間に九州一周を行ったが、寒い時期の日本近海は荒れ気味の海象が続き、その厳しさを、我が身を持って体感することとなった。普段帆走している佐伯の海が、いかに穏やかで水が澄み、詩趣豊かな風景に恵まれている素晴らしい海域であるかを再認識させられた旅でもあった。
 先日、多分今年最後となる福山から別府間の回航は、これまでの航海の内で拍子抜けするほど楽な瀬戸内の回航であったが、これもそれまでの荒い海を乗り切ったご褒美だったのではないかと思う。その前の別府から千葉館山間480海里の回航の状況報告で、海から見た厳しくも美しかった日本の風景と航海の様子を、写真を織り交ぜてお伝えしようと思う。

 11月29日、午前4時別府新若草港を出港したARGO号(ヤマハ製30ft)は、伊予灘でまず最初の北西の強い季節風と波に翻弄され、2回ほどサイドデッキが水没するほど大きくヒール(傾くこと)しながら東進して瀬戸内海を目指した。この時期の伊予灘は大抵良く荒れるので別に驚かなかったが、デッキで踏ん張る度に、先日損傷してサポーターを巻いている右足の靭帯が痛むことが苦痛だった。
 最初の目的地「ゆたか海の駅」に午後6時到着して、予約していた夕食を摂り、風呂に入って人心地がついた。85海里の長距離を無理して走ったのは、冬の崩れやすい天候の中で予定通りレグ(航程)を進めるためには、出来るだけ走れる時には走り悪天候を途中のいい港でやり過ごしたかったことが理由で、比較的穏やかな瀬戸内海は早めに通過して、天候待ちで足止めを食って時間を失う可能性がある紀伊水道、熊野灘、遠州灘を考慮して、航海計画での日程10日以内に目的地に到着するためだった。
        

 11月30日、午前6時半に「ゆたか海の駅」を出港して15海里先の宮窪瀬戸に進路を向けた。穏やかに晴れて、この時期としては珍しく暖かい天候の中で逆潮のしまなみ街道下の瀬戸に近づくと、最狭部が6ノット近い逆潮で一時0.9ノットくらいにスピードが落ちてヤキモキしたが何とか乗り切った。燧(ひうち)灘に出ても穏やかな海況は続き、のんびりと走ることが出来た。やがて瀬戸大橋が見えてくる頃、若干北西風が強くなってきたが、内海のため波高はたいして大きくはならなかった。ただ航路を走っているために追い越していく本船の引き波の影響を受けて乗り心地は良くなかった。瀬戸大橋を通過して後ろを振り向くと、瀬戸大橋越しに夕日が沈んでいくのが見えた。
午後6時半、10m/sを超える風が吹き出し暗くなった頃、油断して高松マリーナ沖で前回無かった場所に大きく張り出している海苔網に引っかかってしまった。
                                                                                                                                                         118番で巡視艇を呼んだが、結局次の日に漁協の方に助けてもらって離脱することができた。しかしその次の日から大荒れになり、結果的には安全なマリーナ内で天候待ちをすることになって、その間休養を取ることになってよかった。師走となり内心は焦っていたのだが、天候待ちしないと仕方ないと自分に言い聞かせてゆっくりと過ごした。マリーナ内でも風が強く大きく波が入ってきて艇ががぶられたが、舫いロープをダブルで摂っていたために1本が切れただけで事無きを得た。

 12月2日、まだ海は荒れていたが、朝7時、これから天候が回復していく間に、難所の鳴門海峡を連れ潮で通過したいために、敢えて高松マリーナを出港した。小豆島沖で波頭が風で飛ばされるほどの強風の中を突っ走って鳴門海峡に午後1時突っ込んだ。大鳴門橋の下を通過して紀伊水道側に出たところで、相変わらず潮が逆巻く状況になった。










 有名な鳴門の渦潮が周りに出来て、風が強いために立ち上がった波が吹き飛ばされる光景が展開する。恐ろしさよりもそれを美しいと感じてしまった。紀伊水道を通過するときには波も大きくなり、自動操舵装置が利かなくなったので舵を手引きして目的地の印南港に向かった。大きくがぶる船の上で5時間立ちっぱなしで舵を引いた。午後6時半無事対岸の印南港に到着。以前訪れた「いち」という割烹に出向いてゆっくりさせてもらった。

 12月3日、朝出港するときはまだ波も風もあったが11時ごろから収まってきた。潮岬を12時過ぎに通過したが、潮も連れで穏やかな本州最南端の岬と串本、大島の美しい景色を堪能することが出来た。午後4時、早めに那智勝浦港に入港した。ここの港は本当に天然の良港だ。
 向かいにあるホテル浦島や中ノ島に向かう連絡船の横の岸壁に舫って、コインランドリーで洗濯してから、以前食事をした「大将閣」へ行った。前回マグロのマコを食べさせてもらったが、ここでも顔を覚えてもらっていて、今回はエラ、心臓の煮付け、マグロ煎餅、腸の和え物など珍味をサービスで出してもらって、大満足だった。
エ  ラ 心臓の煮付け マグロ煎餅 腸の和え物

 12月4日、午前8時、いよいよ伊豆下田までの160海里を走破する航海に赴いた。この先には難所の熊野灘、遠州灘が控えている。気負いのような感情が湧き上がってくるのも、むべなるかなと思った。紀伊半島が見えなくなる頃いい風が吹き始めた。その風に乗って順調に距離を伸ばしていった。
 本船航路なので行き交う本船が多く気が抜けない。日付が変わったころから風速が上がってきた。闇の中で波も大きくなっているのが分かる。それでもなんとか自動操舵が働いていたので、一旦仮眠を取るためキャビンに入って身体をバースで横たえた。と直後にふわっと身体が浮いて左舷から右舷へと弾き飛ばされた。テーブルの角で背中を思い切り打ったが、幸いライフジャケットを着用していたためにどこも怪我をせずに済んだ。午前3時、いよいよ風波が強くなり大波を食らってドジャー(風防)がデッキを乗り越えてきたその波で潰されてしまった。ロープを使って応急修理したが、窓のアクリル板が流出してしまった。

 12月5日、午前6時過ぎ駿河湾、東の空が白み始めた頃、風波がやっと落ち着いてきた。日の出を迎え反対側を見ると富士山の頂が茜色に染まりながらくっきりと姿を現し、神々しいその姿に感銘を受けた。その頃前方に石廊崎が見えはじめた。その先に神子元島が現れる。伊豆諸島も見えた。加山雄三の歌に現れる景色がすっきりとした空気の中で光を放つ。憧れの景色を大好きなヨットから見るこの醍醐味に例えようも無いほど興奮した。これは苦労して独りぼっちで遠州灘を乗り越えた私へのプレゼントだと思った。興奮冷めやらぬまま午後2時、伊豆下田港、ペリーの上陸地点にあるポンツーンに着岸し、無事今回のハイライトである160海里を乗り切った感慨に浸りながらぐっすりと眠った。2時間ほど眠った後、街に出て名物の金目鯛を食べて乗り切った長い航海を独り祝った。

 12月6日、最後のレグ約49.1海里、伊豆下田から最終目的地千葉館山の船形港に向け、少し遅く午前8時に出港した。ここ下田の出口は東に向かうと危険な洗岩があるので沖だしを十分にして伊豆大島に進路を向けた。午後1時、それまで穏やかだった海況が一変して南西風が強くなってきた。
 伊豆大島の影から抜ける頃、20m/sを超える風のために4mを超える波頭が吹き飛ばされ周りは白く泡立つ海況になった。自動操舵が利かなくなり、仁王立ちになって手引きしながら房総半島を目指した。


 6ノットくらいしか出ないはずの艇速は、波の背に乗るとサーフィンして時折13ノットを超えるまでになった。午後4時過ぎ低い雲が垂れ込め薄暗くなった中、目的地船形港入り口に辿り着いた。追い波とまだ収まらない強風の中で、一発勝負で入港出来なければテトラポットに激突するだろうなと思いながら、意を決して幅30mくらいの港口に突っ込んだ。防波堤内側に無事回りこんで入ることが出来て前を見ると、内側の防波堤に誘導してくれる人影を見つけた。彼の誘導で実際の接岸場所ではなく奥の場所まで移動したが、指定された場所は風が強く押し付けられて艇を破損する恐れがあったため、無理を言って風上側の岸壁に移動して舫いを取ってもらい今回の回航は無事終了した。
      新オーナー

最後まで気の抜けないハードな回航だった。
 なぜ自分がこれほどまでにヨットが好きなのかは依然疑問のままではあるが、厳しい海況の中での回航をやり遂げた後の達成感には格別のものがある。この様な航海に出て行くには、途中の景色の美しさ、出会った人々とのふれ合い、その土地の名物料理の味わい。瀬戸内の潮を乗り切る難しさと太平洋の荒波を乗り越える難しさ、それらを受け入れる柔軟な気持ちと体力、当たり前に安全でなければならずそれを保障するものも無い中で、自分を荒海に押し出す判断力と決断力等が必要だろうと思う。それにもっとも大事なことはヨットと海を愛していること。これら全てが合わさって回航は遂行できると思う。好きでなければこんな命がけの割に合わない仕事は出来るはずもない。そして・・・・・・
素晴らしい非日常の世界を体験したいがために、私はまた海を往く。
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