ヨット航海記

(No.2)

4月28日〜5月5日
  平成19年

(-Golden-Week 2007・)

同航艇
 (2隻)

CareFree号 GreenWich号

                ヨット航海記(N0.2)
 はじめに
航海記の筆者=GreenWich号西崎孝志。
昨年4月子供達がパソコンを贈ってくれた。その直後にゴールデンウイークを活用したクルージングを
実施したので、81歳の勉強にとパソコンによる「ヨット航海記」の作製に取り組んだのでありました。
全くの素人で、本を読み息子に教えを乞い、苦心惨憺の上、仕上げたのでありますが、、、
今年も又、連休を利用した、クルージングをすることになり、筆者は昨年の苦労も忘れて、再度航海記
作製に取り組む事になった、様な次第です。その様な訳で、呼称は「航海記(No2)」としました。
先ず、クルージング計画の経過から話を進めます。
1)GreenWichの私達は今年は九州にしよう、別府辺りにするか?平戸まで足を延ばすか?と、検
  討しながらも、迷っていた所でした。
2)其の時、CareFreeの方から「二隻で別府までのクルージングはどうか?」のお声がかかり、私達は
  喜んで賛同させて頂いた次第です。
3)所が私の方では途中三日間愚妻を連れて陸上ドライプ観光をしたい、との希望を持っていた、の
  ですが今度は其の日程にCareFreeが同調下さった様な訳です。謝謝。
4)同行二隻のヨットの陣容(内容)は次の通り。
    CareFree号 広島(田島、内海)一三原、尾道水道(瀬戸)の最も東に位置する島−
              布刈ヨットクラプ(メカリヨットクラブ)
              乗艇者 艇長大村俊三
                      山崎雅史
              (山崎氏は「ヨット美帆II」の艇長であるが、今回は応援で乗艇)、
    GreenWich号岡山(玉野、向日比)
              乗艇者 艇長西崎諭(息子)
                      西崎孝志(父、航海記筆者、満82歳)
5)GreenWichは4月29日の早朝(午前3時30分)安下庄港(屋代島)でCareFreeに追いつき
  合流したのであるが、其処までのCareFreeの航程は、26日の深夜、内海を出会、大三島
  (宮浦港一泊)を経て安下庄港に到着し、GreenWichを待っていて下さった、のであります。
昨年の航海記にも記載したのですが、ヨットには独特の用語が多く「船体各部、各部品、操船方法
乗艇者の呼称,等の用語名称」ヨットマン以外には判りにくいので、ここでは極力平易な表現にしたい、
と思っています。
  駄作ですが窓下の「ツレズレ」にでもお読み下されば幸いです。
                                以上

平成19年「2007」
4月21日 「土」夜 向日比母港「桟橋ポンツン」にて船中泊、曇り、無風状態。
22日 6.00 起床。
6.30 出航(今日はGreenWichを大埼下島迄回航する為の航海である。)
          参考 「備讃瀬戸の潮流」
                転流時      最  強  時
               7時57分     10時44分  十1,5ノット
                                (十印は西流を示す)。
7.00 渋川港到着。 休憩。「海水浴で有名、ホテルもあり。保養地。」
潮流の好転[転流]までゆっくり休憩とする。
7,30 渋川港出航。 曇天、天気予報では曇り後雨、であったが、今の所
雨の降る気配は無い。 今日は何故か、渋川沖の本船航路の近くに
沖停泊している中型船が3隻「下記」も見られる。
    白色の船、 見たことも無い異様な形で、想像するに、
            海洋計測調査船?であろうかと思う。
    青色の船、船腹に「塩化アンモニヤ」「火気厳禁」の注記あり。
            此の材料の納入先は何処の工場であろうか?又ど
            のような工程で使用されるのであろうか?などと
            思いながら眺める。
    黒色の船、 普通の貨物船。
今日の目的地は「大埼下島、海の駅」である、少しでも近い與島の北側
を西に抜けるコースをとる事とする。以後エンジンは2700rpmの
機走とする。 GPSを眺めていると、與島の北東半海里程の処で水深が
急に35mになったり18mになったり、水深の差が大きく表示される
様になったので、改めて、水深と海面の状態を比較しながら眺めている
と次のことが判った。
   即ち、水深18mの所は  海面は波を立てて流れる。
       水深35mの所は  海面は穏やかに流れる。
当然なことで、海面の様子は水深を如実に表すのであるが、水深
の程度や潮流の速さで大きく変化するであろうと思いながら眺める。
之は潮流の有る場合の話しで、潮流の無い場合は別であると思う。
8,25 瀬戸大橋の直下を通過する。
9,25 広島西端の見慣れた異様な山形を右に眺めながら通過する。
左に「高見島」、右に「左柳島」を見ながら其の中間を西航の時、
真後ろ「マウシロ」から西航の大型船が近ずきつつあり、GreenWich
は「紳士的に?]右に大きく転舵し、大型船に道を譲る。
エンジン2700 r p m至極順調に走る。
GPSを眺めて居ると水深計に、度々大きな魚群が見える、かと思えば
魚一匹もいない所もある。不思議と言うか、引き網を引いている漁船は
後者の魚一匹もいない所で作業をしている。 之は漁師が不勉強なのか、
又は魚が賢くて逃げておるのか??又魚群と見だのが誤りか?。
ョットで「流し釣り」をしよう、と協議一決、釣り道具を取り出す。
   大体、親子共に「釣り」など無関心の方で、釣りは全く素人
であるが、一応「釣り道具」を揃えていたのである。
さて釣らんかな、、、の意気込みだが、肝心の「釣り道具」の「セット
部品」が見当たらない、巳む無く釣りは中止となる。全く泥縄式間に合
わずの実流であった。若し釣りをしていたら必ず大物を釣り揚げていた
と思う。「捕らぬ狸の皮算用」。
10、30 六島「ムシマ」を右真横に見ながら通過する。
六島と四国の三崎半島「先端」との中間に位置するN07灯台「航路標
識」を確認する。以後自動操縦に対する指示方緯は、N03灯台迄の約
3時間の航程を、方緯255度に定めて指示転舵する。
此の霞は典型的な「春霞」の模様である。後ろに六島がボンヤリと見え
る様になった。目を転じ前方「西」を見れば前面総て水平線と言うか霞
ばかりで何一つ見えない
はっきりとは判らないが、多分此の辺りが瀬戸内流の潮流の東西の分岐
点辺りでないか?と思いながら流面に目を凝らす。
N06、N05、N04、灯台を順次左に見ながらGreenWichは順調に
走る。
N04灯台を過ぎた辺りから、小康状態だった小雨が次第に本格的な
雨となり、急いで雨衣を着用する。
左に高井神島がぼんやりと見える様になった。後ろを見れば、見流す限
りの霞か水平線、其の中をGreenWichが起こしたヨットの引き流が、
何処までも1直線に尾を引いている。見事な自動操縦の成果で素晴らし
い眺めである。「GreenWich万歳」を叫びたくなる心地である。
若しハンド(手)操舵であれば、其の航跡は「酔いの千鳥足」であろう
などと思いながら、、、。
12、50 N03灯台を左に確認する。 GreenWichは「宮の窪瀬戸」に向け方位
を262度に転舵する。  雨は益々本格的な降りである。
来島流峡の潮汐表を参考にすれば、GreenWichが「宮の窪瀬戸」に
突入する時刻は、丁度潮流が東流から西流に転じて開か無い時であるの
で「船折れの瀬戸」〔宮の窪瀬戸の中程の最も流れの激しい箇所〕の流
れは穏やかであろうと予想し、今日の操舵は手動とせず試みに自動操舵
に任す事とした。
「4月22日の来島流峡の潮流」
      〔転流時〕    (最 強 時)
      8時45分    11時23分  十4,8ノット
     14時02分    17時29分  −6,3ノット
        十印は南流を示す。「潮流が東に流れる、」
        一印は北流を示す。「潮流が西に流れる、」
14,20 宮の窪瀬戸に突入する。潮流やや有る程度、予想通りである。
「船折岩」の近くで東進の中型船に出会う、左に見ながら行き交う。
自動操舵にて無事に此の瀬戸を通過した。宮の窪瀬戸をこの様な静かな
状態で通過するのは始めての経験である。
1 4, 50 宮の窪瀬戸を通過後、東進の中型貨物船4隻が1列縦隊で瀬戸に入って
行くのに行き交う、振り返って見れば其の4隻が大橋「伯方島〜大島間
の橋」の下を整然と1列で進み、やがて一定地点で整然と順次に左に転
舵して「船折れの瀬戸」に向かう姿は勇壮に似た眺めであった。
GreenWichの目的地である大埼下島の「ゆたか、海の駅」は大分近く
なってきた、だが、未だ約2時間はかかると思う。
今、右側に見えるのは大三島の南側の西端に近い所である、此の儘西進
し岡村島を過ぎれば、やがて大埼下島の東南端にある古い旧式の白い
灯台が目に入る筈である、其の灯台を左に見ながら北へ進むと左側に
「大長港]の大きな宇が目に入る、其の直ぐ北の港が小長港の「ゆたか
埼の駅」であり、短いが二本の立派な浮き桟橋がある。
前記に古い旧式の白い灯台と書いたが其れは随分古い時代に設置され
た様である。今でこそ旧式だが設置当時[江戸時代より以前か??]は
「ハイカラで最新式の灯台」と噂された事と思う。と、、、、。
  〔消防艇の放水〕
道順を考え目的地に到着した気分でヨットに身を任せておると、岡村島
の岸近き辺りで突然に放物線の水煙が揚がる、島れば消防艇の放水訓練
の様である。慌てて撮影の準備をしたもののシャッター寸前に放水訓練
が終了、消防艇は高速で宮の窪瀬戸の方向に姿を消す。消防艇には三本
の斜線があったので埼上保安庁所属の消防艇であろうと思う。此の撮影、
撮れなかったのが誠に残念であった。
以前に、ヨット仲間の宮崎様〔軽井沢在住、ヨットは牛窓泊、写真家〕
から伺った言葉を思い出した。
即ち、素晴らしい写真を撮るためには、常に首から写真機を
     ぶら下げており、咄嵯に撮影が出来なければならない。と。
誠に其のとうりであった。本格的降雨云々、、、は言い訳にもならない。
大袈裟な表現だが、まさに、千載一遇のチャンスを逃す。逃がした魚は
大きい。の警え〔タトエ]。
15,30 前記の「古い白い灯台」の真南とおぼしき辺引こ一隻の展帆ヨットが見
える。そのヨットは随分とゆっくりしたスピードのようでGreenWich
は見る島る近ずき殆んど同時に白い灯台の前を通過する格好となった。
1 6, 00 大埼下島南端、御手洗港突端の古い白い灯台を左に眺めながら通過する。
後ろを見れば先ほど見たヨットがGreenWichの後を追随しておる。
16,30 「ゆたか海の駅」の桟橋に無事係船する。
   「ゆたか埼の駅」のle1,08466-7-2250
    _大埼下島、豊町、小良港_
浮桟橋が新しくなっていた。桟橋は短いが二本有り、以前に比べて大き
くなり、更に係船し易い様に設計されておる。
    母港向日比     出発時刻    6時30分
      「途中、渋川で30分休憩」
    大埼下島海の駅   到着時刻   16時30分
                     所要時間    9時間30分
                     走行距離  約60マイル。
                     船 速      6,3ノット
私は事務所(食堂)に到着の挨拶に行く。
息子は後から入港してきたヨット(前記のヨット)の係船の手伝いをす
る。其のヨットは「るな号」34〜35Feet?船籍は兵庫県〔高砂]。
間けば、「関釜アリランヨットレース」に参加する途中とのこと、毎年
参加の由。
二人乗艇で此処まで来たが北九州で応援隊と合流、メンバーを整えて
レースに参加するとの話であった。  祈、成功、航海安全。
さて、GreenWichは28日迄此処に停泊し、あらためて28日の21時頃
に解ランするので、慎重に係船をする。
係船と時を同じくして雨は止む、どうやら大気になりそうである。
私たち二大は陸路家路を急ぐので、事務所に挨拶をして、高速連絡船が
出る大長港[歩いて10〜15分]に向かう。
17,35 竹原港〔呉線竹原駅]行きの高速連絡船出発。
流石に高速艇である、速い速い、、、船員に聞けば「自動車に例えれ
ば50〜5 5kmのスピード」との説明である、5 5km とすれば
約30ノットである。 竹原迄の間に4箇所の停留所〔停船所〕が有っ
たが停船して客が乗降したのは一箇所のみであった、三箇所は客が無い
為か徐行〔徐航〕したのみで停船せず素通りであった。
18,05 竹原港到着、
定期バスの時間表を見れば待時間が30分ち有るので、竹原駅まで歩く
ことにした。幸い駅前まで帰る土地の方とご一緒になり、お蔭で迷わず
すんなり駅に到着した。「所要時間約10分」
以後待ち時間も少なく呉線に乗車、三原駅で本線に乗り換え、福山駅から新幹線に
乗り換えて大々岡山、神戸へと家路を急ぐ。
以降再出発の28日まで省略する。
4月28日
先週の日曜日にGreenWichを回航している大埼下島の「ゆたか海の駅」迄
陸路を急く。
       新幹線、   岡山発「こだま」     17時33分
              三原着          18時20分
      JR呉線   三原発「各停」      18時32分
              竹原着          19時07分
       高速連絡船  竹原港発         19時37分
              大長港着         20時14分
      徒歩     小長港「ゆたか海の駅」着 20時25分
2 0,25 「ゆたか海の駅」にてGreenWichに乗艇する。
「ゆたか港の駅」が在る大埼下島について少し記述しよう。
1)大埼下島は大三島の西方やや南に位置する。
2)大埼下島の東向かいの島は「岡村島」であり、其の間は南北
  に狭い航路「水路」となっている。
3)大埼下島の東岸の南北の距離は約5km弱である、その間に
  南から順に「御手洗港」「大長港」「小長港」があり、夫々の
  港に各方面から連絡船が来ている。 「ゆたか海の家」は
  小長港にある。
4)「御手洗港」の直ぐ南の突起堤防の先端には燈籠の形をした
  白い大きな現役の灯台があり、昼間も格好の「航標〔澪、ミオ
  ツクシ]」となっている
5)その昔、瀬戸内海を往来する多くの船は「御手洗港」を中継港
  及び風待港とした由で、其の為堺港の向こうを張る程に繁盛し
  たとの事である、今でも此の港の周辺には昔の真き時代の面影
  が多く残っている。
6)大長港前の自転車屋には「貸し自転真」をおいている。自転車
  にて大埼下島を一周したことがあるが、約1時間弱を要した。
2 1,30 ゆたか海の駅を出発。
暗闇の中、岡村島との間の水路を、御手洗港の南端灯台を日指して南
下する。空は次第に晴れて月明かりとなる。月齢は10,6、もう三
日すれば満月である。
 (参考)来島海峡の潮流の状況「長も近い所」
       転流時         長 強 時
     28日21時44分    29日00時48分 −4,6ノット
     29日03時49分    29日06時52分 十4,7ノット
      ー印は北流を示す「西方へ流れる。」
      十印は南波を示す「東方へ流れる。」
2 1, 45 上記、御手洗港の灯台を右に見た後、大きく外海に出て、左に「西に」
転舵し斎島(イツキシマ)灯台を左に長る航路230度に定針する。
   GPS表示の方位も、海図面からとった方位も共に230度
   0,K オーライ。
月明かりのもと、右に大埼下島が薄ボンヤリと浮かび、左を見れば
四国の町の灯が直ぐ近くに見える。月夜の航海は誠に幻想的である。
今夜の日的港「行く先」は屋代島(ヤシロシマ)の安下庄港[アゲノ
ショウ]である。其処に先行係留して待っているヨット「CareFree
号」に追いつき合流し、一緒に別府へのセーリングを楽しむためであ
る。
今夜は無風状態、エンジン2 6 0 0rpm[回転]機走としている。
GreenWichは船速6,9ノットで順調に走行する。潮流が西流に転
じて間がないのに此の船速である、明朝1時頃までは潮流が次第に早
くなるので、船速もそれにしたがって、次第に増すであろう。
2 2,30 斎島灯台を左真横に長る線を通過する。
此の辺りは安芸灘とも斉灘〔イツキ灘]とも称されている
以後、安居島を左に見るコースを経てクダコ水道を日指す。あらゆる
灯台や浮標の灯りは勿論のこと、往来の船舶の灯りや舷燈にも気を配
り、長張り怠ることなく。
エンジンは音も軽く、心地長い「ボスボス」の音を発しつつ、ボス〔艇
長]頑張るぞ、、、とばかりに力強く駆動している。
24,00 「4月29日、午前O時」
クダコ水道を日前にして後ろから二隻の中型貨物船?が次第に近ず
いてくる。月の明かりが邪魔するのか?其の船の弦燈の色がはっきり
と識別できない。見たして左右どちらを追い越すのか??。
因みに、GreenWichの舷燈は、自船から前方を長て、
          左りは紅〔クレナイ]色。
          右は緑(ミドリ)色である。
    注、「海上衝突予防法」により定められている。
双眼鏡で確認すると、二隻とも紅と緑の両方の色が見える、間違いな
くGreeWichと同じようにクダコ水道を通る様である、更に注意しな
がら眺めていると、、、、
前の船の舷燈は次第に緑色が消え、紅色のみが見える様になった。
    即ちGreenWiehの右を追い越しクダコ小島の右を通る
    コースの様である。
後続船の舷燈は急に紅色が消え、緑色のみが見える様になった。
   即ちGreenWichの左を追い越すコースである。急に左に離
   れてきたので、クダコ小島の左を通るコースの様である。
ひとまず安心、GreenWichは注意しながらも現状の直進コースを維
持する事とする。
後続船の二隻は予想した通りGreenWichの右と左を追い越していく、
其の様子を眺めていて「貨物船の船足は速いナー」とあらためて思う。
今度は、夜だから見えないが二隻の船の大きな引き波が交互に来る筈
と思い、身構えしながらヨットに身を任す。
29日 0,42 クダコ小島の右を通過する。突き当たりの二神島を右に迂回して西に
転舵、屋代島の南の沖家宝島《オキノカムロジマ》を口指すコースに
変針する。行き交う船の姿も見えない、、、筆者急に睡魔に襲われ、
操舵を艇長に譲り、ベットイン。
3,20 艇長「息子」の声で起こされる。
出てみれば、GreenWichは既に安下庄港の入り口にある一文字堤防
の所に到着している。
然し、一文字堤防の左(西側)の狭い水路が暗闇の為判別しにくいの
で、大型携帯灯で照らすように、、との指示である。
大型携帯灯で岸壁と堤防を交互に照らしながらGreenWichは微速前
進、赤灯台を右に見ながら入港し次第に左に転舵岸壁に向かう。
3,30 GreenWichは先着のCareFree号に横付けで係船する。
CareFree号の大村氏と山崎氏は既に起床されて、朝食を作って私達
を待っていて下さった。感謝。  CareFree号にお邪魔して朝食を
ご馳走になり、乾杯、暫し歓談する。
    GreenWichの今回の走航を検証すると次の通り。
      ゆたか海の駅出発  28日2 1,30
      安下庄港  到着  29日0 3,30
      所要時間         6時間
      走行距離      約42 マイル
      平均船速        7 ノット
    (参考、 来島海峡の潮流)
             「転流時」  「最高時」  「潮流」
      西流「北流」 21,44    0,48    4,6ノット
             〔28日〕    〔29日]
    潮流を上手に活用した走航実績で、船速に満足、検証OK,
5,00 安下庄港出発
GreenWichはCareFreeをやや右前方に眺めつつ追随しながら、一路
平郡島の南端を口指して進む。平郡島を過ぎれば、次の別府までの約
9〜10時間の間は島は無く、在るものは「大洋」の如き大きな伊予灘である、空は次第に明るさを増し、夜はすっかり明ける。
(次の写真は、安下庄湾沖の目の出、右の島は、屋代島の東南端にある「沖家宝島」である。)
6、30 平郡島の南端を右真横に見る線に到達する。
方位を235度に変針する。以後概ね此の方位を保ちつつ別府を目指す
こととする。
8、30 風が少し出てきたので「CareFree号に少し遅れて」セール(帆)を
揚げる。 エンジン回転を2200rpmとした、機帆走となる
(次の写真は)
      −よう、ろう尽くしの写真状況説明−
前方(向う)はCareFree号
後方(手前)はGreenWich号
風が出た、少しだが出た、殆んど向かい風だが兎に角出た、嬉し
帆を揚げよう、先ずメインを揚げよう、CareFreeから揚げよう、
其れをGreenWichが写真に撮ろう、殆んど向かい風だが操帆操船
技術でカバーしよう、
GreenWichはもっと前に進んでCareFree号を横から撮れば帆が
大きく素晴らしい雄姿の写真となったであろう。
振り向けばヨットと八島との間の本船航路を3隻の中型貨物船が
行儀良く縦隊をなして西航[下関方面に向かって]している。
GreenWichの帆は、弱風だが機嫌よく風を孕んでいる。
之まで約3時間30分を要しているが、別府までは更に7時間程かか
ると思う。  間もなくハ島の姿は消え、四方水平線のみの世界と
なる筈である。
8.50 風が少し強くなり、波が少し騒ぎ出した、 今度は、帆が風を孕ま
ず、ばたばた音を出して騒ぎ出す、風が全く真正面になった為である。
巳むを得ず方位を別府の少し北の「日出〔ヒジ〕と杵築〔キツキ]」。
の中間辺りに変針する。此の少しの方位変更と「メインシートトラベ
ラー」の操作により帆は再び風を孕み元気よく別府に向けて走り出す。
    エンジン  2200rpm
    船速     6ノット を表示している。
「参考」
Yacht〔ヨット]のCareFree号とGreenWich号は大きな伊予灘の真っ只中を少しずつ
少しずつ別府に向け近づいているが、気に懸かるのは「速吸瀬戸(ハヤスイセト)」の
潮流の影響である、其の瀬戸は四国の佐田岬半島と九州大分県の佐賀関半島の間に位置
する大きな瀬戸であり、其の潮流は航行する船舶に相当の影響を及ぼすのである。
以上の理由から、今日4月29日の「速吸瀬戸」の潮流の状況を調べ、下記する。
        転流時         最  強  時
       02時10分        05時02分  十3,3ノット
       08時13分         11時39分  −3,4ノット
       14時31分        17時24分  十3,6ノット
       20時38分        23時56分  −3,3ノット
   注記   十印は北流を示す。「外流から瀬戸内海に向け海流が流れる。」
        一印は南流を示す。「上記の反対の流れ」
          ノットとは1時間に1海里「1852メートル」進む速さ。
          6ノットと言えば1時間に11,1 1 km進む速さである。
前記、「8時50分の風が少し強くなった時」は潮流が南流に変わってから37分過
ぎた頃であるのでヨットは緩やかな潮の流れに乗ってセーリング〔帆走〕している
ことになる。以後北流に変わる〔転流する〕14時31分までは、上手に海流を活用
した帆走となる筈である。今日の出航時間決定等のセーリング計画はCareFree号
が設定したものである。別府到着が15時前後になる予定であるので、其の事も併
せ考えると今日のセーリング計画は100点満点になると思う。 CareFree号万歳。
9,20 見流す限りの水平線。船舶の影も全く見えない。並航する2隻のヨット
の影のみ。伊予灘は流石[サスガ〕に「広いな−」と思う。
ヨットは    2200r pm  6ノット を示す、順調、順調。
我を忘れてヨットに身を任せている、無我の境とはこの様な事かと思う。
私は枯木の老人であるが、他の3人は世の重鎮、積もる肩の疲れをあの
水平線の彼方に流し、命の洗濯をされているのであろう、、、、と思う。
(次の写真は、老人コーヒータイム、無我の境で眠いのか?)
10,45 2隻揃ってジブセール〔前方の補助帆]を揚げ、フルセールとする。
           エンジン  2200rpm
           船 速    6,6〜7,0ノット。
                   フルセールとした事で船速約一割上昇。
           風向き強さ  以前と全く同じ。
11,00 遥か前方の右と左にボンヤリと貨物船の姿が現れる、ヨットはこれから
速吸瀬戸と関門海峡を結ぶ本船航路を横切る態勢となる、要注意。
上記の左右の船舶はヨットのかなり前方を早く通過すると判断して
ヨットは其の儘直進する事とする。
1 1,10 先の船舶を右に見送りつつ進むと、浮灯台(航路標識)が目に入る、
本船航路の中央ラインである。行き交う船舶が少ないのは連休の為で
あろうかと思う。
11,40 薄ボンヤリと見えていた国東半島がはっきりと見えるようになった。
艇長が大分空港に着陸する飛行機が見えると言う、双眼鏡で確認すると
間違いなく飛行機である。私は度々当地を訪問しているが海から眺める
のは初めてであるので地図「地理」全体を把握しかねていたが、空港の
位置が確認できたことで地域図全体を把握できるようになった、新し
い別府ヨットハーバーの位置も略見当がつくようになった。
ヨットは指示方位の通りに日出〔ヒジ〕町と杵築〔キツキ〕市の中間を
目指して進んでいる。別府に入る為には少し南に向け転舵する必要が
あるのでヨットはタッキング〔風上に向かって方向変換する方法〕を
行い、日出町の東端の大埼鼻岬を右に見ながら別府湾に入ることにした。
13,15 大埼鼻岬を右に見ながら別府湾に進入した。
別府ヨットハーバーの少し南にある「マリンタワー」を目標にして方位
を定める。別府に到着した様な気分になったが、然し別府湾は特別に
広い、まだまだ2時同位はかかるであろう。
艇長特製の「美味しいコーヒー」を飲みながらゆっくりと海から眺める
別府の景色を楽しむ。
14,00 別府の街が眼前に広がる。何だか神戸の街を小型化したような景色で
ある
ジブセールは既に降帆。
14,30 メインセールを降ろす。艇長がCareFree号と電話相談していたが
GreenWichが先に入港することに決まる。
別府ヨットハーバーについて。
  1)以前のヨットハーバーは旧別府港に隣接していたが「JR別府駅
    前通りを真っ直ぐに海に下った所」同ハーバーを改造する?とかの
    理由で現在地に移転している。
  2)移転先は約500メートル北に新設された港で、珍しく漁船とレジ
    ャーボート(ヨットが中心)との共用港である。
    東西に区分し、東側はレジャーボート用、西側は漁船用である。
    東側は長い立派な浮桟橋があり、水道電気の供給設備も完備されて
    いる。
  3)入港希望の場合は事前に申し込み、了解を得ることが必要。
(別府ヨットハーバーの写真。)
      浮桟橋が余りにも長いので全長の半分弱の範囲の写真となった、写真の
      先端がハーバーの出口、向かいの山は猿で有名な高崎山。
15,00 無事別府ヨットハーバーに到着。
         屋代島安下庄港  出発時刻4月29日 5時
         別府ヨットハーバー 到着時刻      15時
                      所要時間      10時間
                      走行距離    約5 7,5マイル
                      平均船速      5,8ノット
                      走行距離    約5 7,5マイル
                      平均船速      5,8ノット
事前に指示されていた通りに、夫々係船する。
GreenWichは浮桟橋先端のカタマラン艇〔双胴のヨット〕の横に係船
をする。此のカタマラン艇とCareFree号の隣の34フィートのヨット
は共に三原からの遠征で大村氏も山崎氏もよくご存知の様子であった
、間けば皆さん58歳で、毎年定期的に別府に遠征している由。
今日は終日薄い曇天であったがヨットにとっては結構な素晴らしい
クルージング日和に恵まれたといえる。
CareFree号とGreenWich号のエンジンさん、もご苦労様でした、
ご褒美に軽油を進呈、補充しよう。
ひと休み、船内整理も終わり、4入揃って温泉入浴にでかける。
目的は「竹瓦温泉」古風な建物で何となく道後温泉を連想する、場所は
別級w前通りを海岸に突き当たった近くである、駅から歩いて(散策)
10分泣か?内部は庶民的な雰囲気で入浴料100円、観光客にも市民
にも大いに親しみを持たれている温泉と見た。温泉の質が大変良いのか
短時間の入浴にも拘わらず体の芯まで効果が浸透の心地であった。
(竹瓦温泉の玄関をバックに、、温泉効果てきめん?夕陽を浴びて御化粧された如し。)
此の温泉に連なる路地は湯の町別府の古きよき時代の面影を留める
繁華街であった。全員古きをたずねつつ散策しながらヨットに帰る。
帰る道すがら温泉効果が如実に現れる、湯に酔ったか?疲れが出たか?
全員心は千鳥足。別府の海岸散歩して命の洗濯。
帰艇後、CareFree号に集合、乾杯
           CareFree号 万歳。
           GreenWich号万歳。
歓談の途中5月4日の別府出発時刻が話題となる。相談の結果、
5月4日の午前O時〔夜中]に出発し、斎島〔イツキシマ]迄船足を
延ばすことに決定する。これは16〜17時間に及ぶオーバーナイトに
近い連続クルージングをすることになるが、5日中に夫々の母港に帰港
して6日を休養日に当ることが出来るので全員賛成の決定であった。
21,00 解散
21,05 GreenWichに帰艇、ベットの用意をしたことは覚えているが以降の事
は何も覚えていない、朝まで深い眠りについていた様である。
30目 7,00 起床、10時間以上の睡眠である。艇上に出て深呼吸、心身共に心地
が良い。別府の街の姿も山容も湯煙の景色も今朝は又一段と美しい。
今日は愚妻が神戸から陸路で別府に来る予定になっている、
新幹線軽由、特急ソニック号で13時35分別府駅到着の予定である。
今夜は親子一緒にGreenWichに船中泊するので、息子は「母さんが
ヨットに泊まるので、、、」と珍しく船内整理と掃除に精を出している。
何分にも泥縄式整理で中途半端な整理に終わった様である。
以後、3日間レンタカーを借り親子三人で九州の東側を南北に観光する予定である、ヨット
航海に直接関係ないが、航海途中の行動であることを勘案し、思い出の為簡単に要点のみ記
録に留めることとする。
30日 13,35 愚妻が日豊本線特急にて別府駅到着。
特急ソニック号の車両内部は素晴らしい内容で又振動や振れも少なく、
さながら、飛行機のFirstClassに搭乗している気分だったと嬉しそうに
話している、余程特急列車が気にいった様子である。
駅前通を散策した後、海岸をヨット迄散歩する。荷物をヨットに置き
暫し休憩。 さて、どの温泉にいくか?余りに温泉が多く決め兼ねてい
たが、明礬は肌を美しくする?とかの理由で「明礬温泉」に決定する。
其の温泉は別府でも北寄りの、やや高地で眺めの良い温泉であった、
入浴の効果不明だが多分愚妻の顔の皺が一つ減った?と思っている。
   (写真は、露天風呂の「降雨時用編み笠」を頭にして。)
ヨットに帰り、コーヒータイム。
CareFree号の大村さんと山崎さんが帰艇され、GreenWich号に来艇く
ださる、 愚妻を含め合計五人、賑やかに暫し歓談。
今夜は東南の風でヨットハーバーの入りロの狭い水路〔東南側にある〕
から波が直接に入っている。
桟橋の端に係船しているGreenWich号は入りロの水路に最も近い為に
さながら波除け船の格好である、初めてヨットで就寝する愚妻は果たし
て眠れるであろうか??と案じながら就寝する。
5月1日 6,00 起床
息子が作ったラーメンで朝食をとる。
愚妻に眠れたか?と聞くと、其の返事は、
   「最初の内は、揺れが気になったが、知らぬ間に眠っており
    熟睡ができた、、、と」
流石にヨットマンの息子の母と、安堵したり、感心したり。
7,00 ヨットハーバーに駐車していた、レンタカーに荷物を移し、出発。
車は九州東海岸を一路南下し、宮崎市を目指す。今日の目的は宮崎から
霧島バードラインを経て霧島国立公園に入り其の東側を観光した後「簡
保日南の宿」に向かう予定である。
話が変わるが、羽田空港から沖縄に飛ぶ飛行機は必ず霧島国立公園や桜
島の上空を飛び〔昭和50年頃〕天気が良ければ「只今霧島国立公園の
上空を飛んでいます、、眼下に其の景色が見えます」と機内アナウンス
されていました、2〜3箇所丸い噴火口の跡がある写真を撮った記憶が
あるので、其の時の写真を次に転写して空から霧島国立公園を眺めるこ
ととしよう。 30年以上前の写真で余りはっきりしないが、、、、。
〔写真、白くて丸いように見えるのが噴火口の跡〕
南国は道路を走るだけでも見応えのある観光である、南洋植物をハイウ
ェイの両側に植えた「一つ葉道路」や「フェニックス道路」。
又、超高層ビルを中心とした「シーガイア」と呼ぶ海沿いの観光地域
誠に飽く事のない眺めである。
霧島公園では神武天皇の祖父の「ニニギノミコト」を祭る霧島神宮に
参拝、清楚で荘厳な雰囲気が印象に残る。
次の行程は、もと来たハイウェイを戻り宮崎を経て日南市に向かう
予定であるが、、、息子は霧島神宮の駐車場でタクシーの運転手と何か
話込んでいる。聞けば日南市への近道を教えて戴いたと言う。
神のお告げと思い其の近道を走る事にする、深山の中を通る立派な道路
であった、行き交う車も少ない、美しい新緑を愛(め)でながら走る
内に、早くも車は日南市の直ぐ隣の「飫肥[オビ〕」市に到着した。
16,30 予定より一時間程早く「飫肥」に到着しているので、予定外に飫肥を
観光することにする。此の地は昔から「日南の小京都」と呼ばれる
城下町である。日南海岸とセットした一日プランの観光地としても有名
である。
飫肥城の歴史は源頼朝に仕えた工藤祐経〔スケツネ]を祖とする伊東氏
の居城で明治時代を迎え、5万1千石であった、と説明されている。
工藤祐経と言えば富士の裾野に繰り広げられた「曽我兄弟の物語り」の
敵で、古い変転の歴史を偲ばせる。城跡には石垣や大手門が現存し、「由
緒ある松尾の丸」も再建されている、藩学校の振徳堂や武家屋敷等城跡
を散策しながら思わず歌詞「荒城の月」をロずさんでいた。
         天上影は替《変》らねど
            栄枯は移る世の姿
         写さんとてか今もなお。
其の一角に「小村寿太郎生家」の立標がある、小村寿太郎は明治時代の
外交官で日露戦争の講和条約の時、主席全権大使として「ポーツマス」
に赴いた人物である。講和条約を終え帰国した折には、一部国民が投石
を以って迎えたと言う史実を思い出し、其の当時の世相と小村寿太郎の
胸の内を偲ぶ。
天守閣跡の上り口に連なる広場[昔の馬場かも知れない?]の建物は飫
肥小学校であった、簡単な木棺で仕切られた校庭で、子供達が放課後の
野球を楽しんでいた、観光客の皆さんは之を眺めて異口同寿に「素晴ら
しい環境の学校だ」と話し合っている。私は飛んできたボールを拾い「投
げるよ一」と声を出し、投げ返す。
18,00 明るい内に宿所「簡保の宿、日南」に到着。
宿は高台に建てられており、私たちの部屋は5階、カーテンを開ければ
日南の市街を一望することができ、街はずれに大きな工場が見える、王
子製紙の日南工場である。現役時代に「昭和48年頃」会社が受注した
「公害防止設備一大気汚染防止装置−」の起工式等で二回程当地を訪問
〔出張]したことかあるので懐かしく眺める。
其の時は車中から海岸の「鬼の洗濯岩と言う奇岩」を観た位であるが、
明日は親子3人ゆっくりと日南海岸を観光しよう、、、と思いながら
何時しか深い眠りに入っていた。
2日 6,00 起床、 此の宿の温泉も素晴らしかった、、、今日も観光日和の天気だ。
今日は日南海岸国立公園を楽しんだ後に延岡を経て高千穂峡を観光し、
宿所がある阿蘇国立公園を目指す予定である。
7,30 ホテル「簡保の宿、日南」を出発。
日南海岸を南に下り最初の道の駅「賛波の展望所」で休憩する、
    (写真の、後ろの景色は観音崎岬の方面)
展望所の売店に地元産の「マンゴ」があるのに驚く。聞けば売店のマン
ゴは近くの農家の産で、其の生態を見たければ裏山のドームに行けば見
学できる、、、と教えてくださる。ドームとは裏山全体に広がる「宮崎県
立亜熱帯作物総合農業試験場と植物園」の事であった。
説明書によれば主な果物約30種と書いてあるが其の内私の知ってい
るものは「パパイヤ.「バナナ」「マンゴー」位で(アテモヤ)とか
 (ゴレンシ、スターフルーツ)とか全く知らないものが殆んどで、
何時の日かゆっくりと見学したいものと思った。
又、観察モデルコースとして、Aコース 所要時間 徒歩20分
               Bコース 所要時間 徒歩50分
  マイカーの子ども連れが多いのは此の観光モデルコースで一日
  ゆっくり過ごすのであろうか、、、と思う。
何分にも此の有用植物園(含農業試験場)は規模が大きい。
  面積   約19ヘクタール
  種類   約600種
  本数  23000本
     (次ぎの写真は、試験場にあるドームの入り口。)
試験場は休日であったが当直者が「どうぞ、どうぞ」と快く見学を許し
て下さる、、、、が、注意事項もあった。
     1)室内は喫煙禁止。
     2)温室内はペットの立ち入り禁止。
     3)野猿に注意、食べ物を与えないで。
     4)火気厳禁。
〔テーマゾーンの一部〕
〔ジャカランダの森]
  5月下旬〜6月の開花期には一帯が青紫に染まり素晴らしい眺めとな
  る由。
(不思議の森)
  花や本の姿がめすらしく、又芳香を放つ棟物等が棟えられた安らぎを
  与える空間と書かれている。
(恵みの丘)
  亜熱帯性の果実などを間近で観察出来る丘。
  一方、試験業の温室は総て温度湿度を調節しながらの試験中である
  ので入室出来ないが、外から硝子越しに眺めてください、
  との話しである。
  数えきれない程、多くの温室がある、マンゴ温室は4〜5棟あったと思
  う、1棟には50本程植えており、各棟夫々異なった調節内容で試験中
  のようであった、其の中の1棟は各本にマンゴがタワワに実っていた、
  1本に40〜50個位であろうか?目を見張る眺めであった。
     (次の写真は、成熟が近い温室内のマンゴ)
更に、驚いた事は、マンゴの木の枝が弱い為か?マンゴの実の1つ1つ
に紐をかけて上から吊るしているのである。大変に手間の掛かる作業で
マンゴの高値が判る様な気がした。
茶目っ気を起こし農家に代わり、マンゴ栽培の経済性を計算してみる
と次のとうりであった
  売店での値段 1個平均2000円「単価は重量で決まる由」。
  農家の手取り 1個平均1540円「中間諸掛3割と仮定」
  1本の収入    7 7,000円「1本に50個なるとして」
  1棟の収入 3,850,000円「1棟に50本あるとして」
素人試算は上記の通りで、減価償却を考え、話半分でも良い経営と思う、
宮崎県が試験研究に精を出す事は「宜(ムベ)なるかな」と思う。全国
の果物店の店頭に「宮崎産のマンゴ」が並ぶ時は案外に早い??と思い
ながら農業試験場に別れを告げる。
今日は南端の都井岬まで足を延ばす予定であったが、マンゴで時間を費
やしたので、巳むをえず、此処から折り返して海岸を北上しつつ要所要
所で下車、観光することにする
(鬼の洗濯岩)」
風光明媚なエリアの眺めの中で特に目を引くものが「鬼の洗濯岩」と言
われる海岸の奇景である、その昔家庭で使用されていた木製の洗濯板を
思わせる波状岩の景色である。日南から南の海岸には随所に見られ、
車から降りるまでもなく走る車の窓から充分に楽しむ事が出来た。
(鵜戸神宮、ウドジングウ)
     自然の景観に包まれた日南海岸の中心地に位置し、海岸にある大きな
     洞窟の中に鎮座されている朱塗りの色鮮やかな神殿であった、
     主祭神は 神武天皇の父君の「ウガヤフキアエズの尊〔ミコト〕」と伝
     える。当神宮は「鵜戸さん」と称されて古〔イニシエ〕より広く崇敬さ
     れた由でこの日も多くの参拝者で賑わっていた。
     宮司の話に依れば、裏山の頂上には宮内庁管轄の「御陵」がある、との
     ことであった。  (写真は本殿のある洞窟への入りロにて).
〔宮崎神宮]
     神武天皇を主祭神とする格式の高い社〔ヤシロ]と聞いており、古くは
     神武天皇社と呼ばれ、現在では市民から神武さまと親しまれている由、
     深い木立の中にあり、社殿は伊勢神宮と同一方式の造り、と言われてい
     る。又境内にある天然記念物の大樹「オオシラフジ」も見たいと思った
     が、行程の時間の関係で参拝できなかった。次回の楽しみとする。
〔青 島〕
     日南海岸国立公園の北端に位置し、周囲1,5Kmの小島で天然記念物
     の熱帯、亜熱帯植物が3000木以上群生することで知られている。
     特に干潮時に現れる広域の「鬼の洗濯岩」は有名である。
     其の景色は素晴らしく日本の渚100選に選ばれている。
     今回、橋を渡り島を一周し、青島神社にも詣でたいと思ったものの
     行程の時間の関係で橋の途中から引き返すこととなった。
     次回の楽しみが又一つ増えた。
(写真は青島に渡る橋に上にて、、、干潮時。)
〔サンマリーナー宮崎ヨットハーバー〕
    最近できたヨットハーバーだが外海からの「入港水路が判りにくい」」
    と聞いていたので、今後の為事前把握をする目的で、見物することにし
    た。
    噂通りであった。ヨットハーバー其のものは奥まった所にあり、外海の
    波の影響は全く受けず、其の点は素晴らしいハーバーであった。
    只、何も知らない者が、此のヨットハーバーに入港する場合は、水路の
    入りロを探すのが大変だ、、、と思われた。又外海からはヨットハーバー
    の建物が邪魔をして「ヨットのマスト」は全く見えない、のであろう?
    と思われた。
    然し、下記の点を把握しておれば案外容易にヨットハーバーに入る事が
    出来ると思う。
      1)サンマリーナー宮崎は宮崎港[フェリーターミナルもある]の
       直ぐ北側に隣接している、
      2)宮崎港に入る要領は、北東から大きな堤防に沿って、斜め南の
       方向に向かって入港するのであるが、ヨットは決して其の大きな
       堤防に沿って入らない事。
      3)入る前の西側[陸地〕に在るのが「宮崎サンマリーナ」である。
      4)日向灘を航行する時の目標は宮崎港にすべきと思う。
    以後、JR日豊本線に沿い国道を一路北上延岡に向かう。
    延岡から道を左に転じ、高千穂鉄道に沿い「日乃影バイパス」を経て高
     千穂を目指して走るのである。
(日乃影バイパス道路)
     バイパスから眺める車窓の景色は息を呑む程の素晴らしい景色であ
     た、道、其のものは深山の中腹を縫いながら走るのであるが、目もくら
     む様な高い橋梁も多い、目を落とせば其処は台地をざっくりと刻む深い
     深い峡谷であった、時々深い谷底を流れる水影が目に入る。
     高千穂の里が近ずくにつれて神話の世界が身近に追って幽玄の世界に
     誘われる様な思いであった。
[高千穂鉄道]
     時々線路と並行して走ることがあったが、走る電車に全く会わない、
     路線は雑草が生え、想像するに今は廃線になっている?と思われた。
     現役かも知れないが??。
[神話の里、高千穂〕
     天孫降臨の物語の里の、観光点は枚挙に暇が無いが今回は「天岩戸神社」
     と「高千穂峡」にとどめる事とした。
〔天岩戸「アマのイワト」神社]
     能、謡曲の物語にもあり、又私たちの時代には学校でも教わったのであ
     ったが、時間の関係で「岩戸」其のものは観る事ができなかった。
(高千穂峡)
    断崖にそばだつ神秘的な峡谷の景色は絵やテレビで見る通りであった。
    高さ100メートル程の柱状節理と呼ばれる断崖や急峻な峡谷には目
    を見張る思いであった。
    只、数日天気が続いた為に滝の水量が少ないか?と思われた。
「火の国阿蘇へ」
     神秘の里、高千穂の観光を終えた。次の目的地は「火の国阿蘇」である。
     高千穂に別れをつげ、更に山奥へと進み、長い玄武山トンネルを抜け
       暫く走ると「之より熊本県」との道標が日に入る。素晴らしい道の左右
       に広がる美しい新緑のパノラマを楽しむ間もなく、次の高森峠を越えれ
       ば其処は「阿蘇くじゆう国立公園」の域内であった。
       レンタカーにはGPS装置が設置されていたので、高森峠を越えてから
       GPS日的地を宿所の「簡保の宿阿蘇」と指示したところGPSは次々に
       近道のコースを教示するので、それに従った所、予定より30分以上
       早く「簡保の宿阿蘇」に到着した。
       到着は日没後になると覚悟をしていたが明るい内に到着が出来てGPS
       に感謝感謝であった。地図を手に外輪山を眺め、噴煙を上げる「中岳」
       を眺め、更に双眼鏡でロープウェイなど細かく観察する内に阿蘇山全体
       の把握が出来るようになり、相談しながら明日の観光ルートを決めたよ
       うな訳である。
       二日続けて「簡保の宿」の利用である。食事もサービスも雰囲気も何れ
       劣らぬ良さであった。特に食事は「普通コース」で予約していたが、食
       べ切れない程のご馳走であった。
       宿の温泉は流石に火の国の温泉で、疲れた体をじっくりと癒してくれた。
(阿蘇山の観光)
5月3日 6時30分  起床
       「簡保の宿阿蘇」は阿蘇山を北方から眺める絶好の位置に在り、駅(宮
       地駅)からも比較的近く、又豊肥本線の宮地駅から「火日(中岳)登山
       日の」ロープウェイに通ずる仙酔峡道路の傍らに追っている。
       この様な訳で北からの眺めは堪能したので、今日は車で西から南に迂回
       して頂上の火日までドライブを楽しむ予定である。
 8時OO分 宿所を出発
   [阿蘇神社〕
       ドライブの前に宮地駅から程近い所に鎮座する阿蘇神社に参拝する
       説明によれば、考霊天皇の代のBC(西紀前)282年創建とされ大宮司
       は其の子孫が継承し現在は91代目と伝へている。
       宮司は子孫が継承、、、と言う話は関東の「高麗神社」京都の「松尾大社」
       などで聞いた事があるが此の神社は桁外れに古くて永い昔の話である。
       神武天皇の孫の健磐龍命(タケイワタツノミコト)を祭神とする古い社
       〔ヤシロ]と説明され、霧島神宮、鵜戸神宮、宮崎神宮を連想しながら
       参拝する、豪壮な楼門と壮麗な社殿が印象に残る。
       祭神は阿蘇開拓の神といわれ、そして此の神社は「肥後の国一宮」とし
       て深い信仰を集めている由。
       神殿は江戸末期の造営「建て替え」で総奉(ケヤキ)の素木遣りで壮麗
       そのものであった
       又、年二回の祭り「例祭]の行事の内容は大昔の生活風習を今に伝える
       ものと言われている。
           7月28日   オンダ祭り。
           3月22日   火振り神事。
             火振り神事は以前テレビで見た様な気がする。
       又、来られれば、ゆっくり観たいと思う。
       中岳の山頂から双眼鏡での眺めでは堂々たる神域を持つ神社であった。
           (次の写真は、阿蘇神社の豪壮な楼門の前で)
〔阿蘇の山〕。
   山麓に広がる馬や牛の放牧場は長閑〔ノドカ]な眺めである。目を転ず
   れば、カルデラの広いエリアを中にして遠くに連なる外輪山が見える。
   世界最大級と言われるカルデラ火山の全容が一目で眺められる、誠に
    「百聞は一見に如し[シ〕かず」であった。
   何かの本で読んだことがある、カルデラとはポルトガル語で鍋や釜を
   意味する、、、、と、誠に其の通りの眺めである。
  (太古を想像(空想)しながらの眺め、飽きる事なし、)
   太古の大昔、有明海と瀬戸内海を結ぶ線は海峡であったと言われている
  、従って今の九州は海峡を境に南北に分かれ二つに島であった、と、され
   ている。所がその海峡に噴火が起こり、流れ出した溶岩が二つの島を結
   んで現在の九州が出来た、、、其の中心が阿蘇山と言われる。
   地質学調査でその溶岩の及ぶ広さは、
     大分県の  臼杵、 佐伯、
     北は    筑豊炭田
     南は    五木、  五家荘、
     西は    天草の本渡にまで及び、その昔の雄大な大火山の模様
   が偲ばれる。更に説によれば、大噴火を繰り返すうちに地下に空洞がで
   き、それが陥没したのが「カルデラ」だという。又別府湾にあった「瓜
   生島」が一夜にして海中深く陥没した(最近検証されたと聞く)との話
   し等色々と思い出し、飽くことなく太古の昔の姿を空想する。
(写真は、カルデラの眺めを背にした、長閑「ノドカ」な牧場風景)
頂上は今も盛んに噴煙を上げている活火山の「中岳」である、標高
1323メートル、火口の広さは東西400メートル、南北1600
メートル、深さは1 2 5メートル、噴火口がポッカリと開いている。
硫黄の臭いも激しく、地に耳を当てればゴウゴウと唸る微かな地鳴りに
地球の胎動をかいま見た思いであった。火口などの有様は地獄を思わせ
る荒涼としたもので、とても筆舌に尽くせない、皆さんの逞しい想像力
に任せます。  又頂上で聞いた話に依れば「今日は風向きが悪く、噴
煙がロープウェイの方向に流れるのでロープウェイの運転は中止して
いる」との話であったっ従って頂上の多くの観光客は皆マイカー族だっ
たのである。私達はドライブにした為、幸運を得た訳で、「良かったな
−」と話しあいながら頂上を後にする。
大方の観光客は下記理由で宮地駅から仙酔峡、ロープウェイを経て中岳
(火山)に登る、と聞いている。
    1)仙酔峡。    特に初夏の頃は谷間全体に咲く赤紫色の
              「ミヤマキリシマ」の眺めは素晴らしく仙
              人も酔ったと言われる。
    2)ロープウェイ,昨日双眼鏡で観察したが「大きくて、窓も
              大きいようで」乗り心地も眺めも良いであ
              ろう、と思われた。実は私たちも此のルー
    トを考えたが、反対側を見たさにドライブにしたのであった。
(次の写真は、頂上にて、噴火口を背にして)
[別府への帰り道]
   今日の最終目的地は「別府」である。別府へのルートは、二本あるが、
   未だ決めかねている、道路が分かれる宮地駅の所に着くまでに決めなけ
   ればならない。其のルートは、、、
       1)竹田市から大分市を経て別府に帰るルート。
        竹田市は「滝廉太郎」が若い頃〔2年間]住んだ所であり、
        又展望満点と言われる「岡城跡」もある、「岡城」は滝廉大
        郎が名曲「荒城の月」のモチーフを得た所、でも有名である。
       2)九重山から湯布院を経て別府に帰るルート。
        此のルート全域は国立公園の中を通るルートである。4〜5
        年前の旅行の時には、九重公園の「牧ノ戸峠」から湯布院ヘ
        引き返しているので、今回は阿蘇の方から「牧ノ戸峠」に上
        るのも一興かと?思っていた。
   今日は観光の最後の日であるので余裕を持った行動にしたい、との考え
   から第2案の九重経由のルートに決定する。
[牧ノ戸峠への道]
   阿蘇のカルデラ地域から外輪山に登るような訳で、振り返れば高度を増
   すごとに形を変える阿蘇の火口丘、、、、、を特別の思いで眺める。
    「牧ノ戸峠」手前の曲がりくねった急坂道の眺めも素晴らしく、「日光
   のイロハ坂」を思い出す。
[九重、湯布院辺りの懐かしき眺め〕
   牧ノ戸峠を過ぎてからは「もと来た道」で懐かしい眺めが随所にある、
      「寒の地獄」辺りの眺めも懐かしかった。
 13時30分 長者原展望台、に到着。昼食をとる。
      牧ノ戸峠までは食堂らしき所も無く、峠を過ぎてから、食堂は多いが何
      処も超満員。九重高原北端の長者原展望台にて、やっと昼食にありつけ
      たのであるが、それとて握り飯を買い、芝に腰を下ろしての食事であっ
      た。弁当持参の観光客も見受けられたが「なかなか心得たもの」と感心
      する。
      此処は北方の湯布院方面を眼下に眺められる素晴らしい展望台である、
      そして今回観光の旅の最後の休憩地でもある。
      芝の上に横になり「此の3日間は素晴らしい観光日和に恵まれ、ほんと
      に良かったな−、、、」と話し合いながら、30分程休憩する。
      此の展望台から「ヤマナミハイウエー」で湯布院にくだり、大分自動車
      道[ハイウェイ]に乗れば別府までは一本道である
15時30分 無事、別府ヨットハーバーに帰着する。
      ヨット(GreenWich号)にてコーヒータイム。
      17時23分発の特急列車にて愚妻が神戸に帰るので、CareFree号に
      挨拶をして二人で別府駅まで見送りに行く。
      愚妻は満足顔にて乗車、、、したと思う。
    (陸上観光の終了)
      自動車の旅を終え、明朝は午前O時にCareFree号と一緒に別府ヨット
      ハーバーを出発、夜を徹しての航行となるので、少しでも早く就寝が
      必要と思い、無理に目を閉じる。
「余談」
    CareFree号は3日間此処に停泊して、私達の帰りを持っていて下さったの
    であるが、その間に
    大村さんは  別府を観光され、又持参の自転車で「別府マラソンコース」
           を走破するなどの観光もされている。
 一方 山崎さんは  仕事の都合で一旦陸路、福山に帰り、業務終了後あらためて
           別府に来てCareFree号に乗艇されておる。
      特別の配慮、、謝 謝
航海記の中に日出(ヒジ)や杵築〔キツキ]の地名が出てきたので、、、、、別府ヨット
 ーバーから自転車で簡単に行ける日出町について、記憶を呼び起こし歴史物語など
こ記録してみよう。
  1)日出町と日出城について。
    別府湾の最も奥深い所の北端にあり、別府に隣接の町である。その昔豊臣氏
    が滅び、徳川の世に移った際豊臣の関係者としては異例に「ネネ」〔豊臣秀
    吉の正夫人]の甥である「木下氏」の二人が小藩ながら封じられている。
           一人は此処、日出に。
           あと一人は岡山県〔備中]、足守(吉備路)に。
  2)初代藩主の「木下延俊」が日出城を築城し、以後明治までの270年間木下
    氏の居城であった。   25000石で子孫は今も東京に在住する。
  3)日出城跡
    現存するものは海岸に聳える石垣と「時鐘」のみである。
    城跡にあるものは、、
                * 小学校
                * 的山荘(テキザンソウ)「城下カレー料理で有名。
                * 城下公園
                * 展望所〔天気が良ければ四国の佐田岬が遠望できる。
  4)的山荘
                Tel 0977・73-3111
      元、九州鉱山王の某氏が建てた豪邸と聞いているが、現在は料理屋〔料亭〕
      として経営されており、「城下カレー料理」でも有名である。私も20年ほ
      ど前に2〜3回「城下カレー」を食べたが結構な味であったと記憶している。
      現在の天皇が皇太子の時にご夫妻で九州旅行なされた折、的山荘で休憩され
      たので急に有名になった…と思う。
    5)城下カレー[魚〕
      日出城の石垣崖下は海である、其の海中から温水が噴出している由で、それ
      を慕って多くのカレーが集まり育つので「城下カレー」の名で全国に知られ
      ている、との説明であった。
    6)松屋寺
      前記、日出藩の初代藩主、木下延俊が建立したもので以後木下家の菩提寺で
      ある。場所は日出城の約1km別府寄りで、国道を50m程山側に入った
      所にある。一見何の変哲も無い田舎の寺であるが、寺内には東洋一と呼ばれ
      る天然記念物の大きな「蘇鉄」の木がある、樹齢700年高さ9,3m
      周囲5,5m、見応えがある。又簡素な「記念館」もある。更に隣接して歴
      代の墓があり、円形の丸い大きな墓が数多く並んでいる。普通この様な墓地
      は一般の拝観〔見物〕は許されないが、此処は申し込みをすれば許される。
      他人の墓と思わず小藩ながら昔の藩主の生活を偲ぶつもりで眺めるのも、
      何かの参考になると思う。思い出したが寺を囲む高い土塀には寺格を表すよ
      うに多くの線が引かれていた、ことが印象に残っている、はっきりと覚えて
      いないが確か5cmほどの幅の、緑の線が4〜5本引いてあったように思う。
5月4日 O時10分前 目覚まし時計の音で目覚める
     今日は16〜17時間の連続航行である、気を引き締めて出航の諸準備をす
      る、準備終了OK.
0時02分前 CareFree,GreenWich号同時に解らん〔最後の係船ロープを解く]する。
0,00 「5月4日午前O時」別府ヨットハーバーを出発。
              CareFree号の先導で静々と、、、
出港後当面の方位を62度に定める。当面は機走[エンジンのみ〕とする。
     エンジン   2100rpm
     船速     5,8ノット
別府よ〔さようなら〕、又来るまでは、、、。
別府湾を沖に出るに従って指向方位を左(北)に左にと、少しずつ変針する
事にしよう。
エンジンは余裕を待った回転数であるので軽やかな音で、機嫌よく頑張っている。
0,30 方位を66度に変針する
0,40 方位を69度に変針する。別府の街は未だ夜中の夢、、、である。
     船速     5,9ノットを表示。
0,50 輝いていた別府の灯は、ぼんやりと見えるようになった。郷愁を帯び
     た眺めである。 あらためて、別府よ、さようなら、、、
          船速     6,6ノット
1,00 別府湾の先端北側の大埼鼻岬の灯台の光が真左に見える。
     別府の街の灯かり
     はだんだんと薄ボンヤリになり、其れに代わって大分工業地帯の灯かりが光
     を増してくる。
     一昨日は流月であった、今夜も良い天気であるが、大きなお月さんには薄い
     霞がかかっている、
     朧月を背にCareFree号とGreenWich号の二隻のヨットが、相前後して仲
     良く進む。
1,05 別府の灯は完全に薄闇の彼方に消える。空を見れば、月は少し西に傾き
     高崎山辺りの上空である。霞の為月は「オボロ月」、満天の星も霞に姿を消
     され、残された1等星の「オボロ星」が只一つ「オボロ月」に寄り流い、
     其の明りを頼るか?のように行く二隻のヨット。その景色は誠に一幅の桧
     の様である。
2,00 大分工業地帯の遥か沖合いに大型貨物船が7隻伸治している。
     連休で港作業
     が休みの為であろうか?。何れの船も不夜流の如き点灯である、これでは間
     違っても衝突されまい、と思う。
3,25 遥か後方から近づく船舶の舷灯は紅と緑の両方が見える、ヨットと同じコー
     スの様である、注意しながら観察を流ける内に緑色のみ、となった。間も無
     く其の船舶はヨットの左側を追い越して行く。
     前方の航流標識灯の光が目に入る。本船航路の標識灯である。ヨットは佐多
     岬先端と姫島〔国東半島の東北]の東端を結ぶ本船航路に次第に近づいてい
     る。要注意。
   「参考」速吸瀬戸の潮流
         転流時        最  強  時
                  2時11分   −3,9ノット
         5時19分     7時57分   十3,5ノット
        10時31分    13時53分   −4,7ノット
      十印は北流を示す、「豊後水道の外流の方から瀬戸内流に向けて流れる、」
      一印は南流を示す、「  上記の反対の流れ、」
     傾いた月はヨットの遥か後方となる。ヨットの引き流に月光が反射してさな
     がら金銀を流す様で実に美しい。(夜光虫の光ではない)。文学青年になった
     積りで描写してみよう。
       西に傾いたオボロ月はヨットを寿ぎ金銀の水流を流す、ヨットの
       引き流が其の水流を捧げ持ち、運ぶが如き有様である。美しく照ら
       される流面を眺め、暫し幻想的な世界に誘い込まれていた。
4,15 門司方面に向かうと思われる船舶が右から現れる。目を凝らせば舷灯は緑色
     である、GreenWichの後方を通過すること確実、安心。
4,40 東の空かホンノリと明るくなった様な気がする。
4、50 明るさを増す、船上で何とかノートに字が書けるようになった。
     全く、無風状態。 エンジン  2400rpmに上げる。
6,20 すっかり夜が明け、船上で海図が流めるようになった。 2時間ほど前から
     1隻の船舶にも会わない、本船航路から外れていた為と思う。
     風が少し出た様だ。 GreenWlch はCareFree号に合わせてメインセーを揚帆
   する。メインセール[主帆]は気分良く風を孕んでいる。
6,45 未だ霞あり、四方水平線のみ。
7,50 八島(平群島の西の小さな島)が見え出した頃、前方に東航の貨物船が見え
   る。間もなく瀬戸内海本船航路を横切るので、見張り、要注意。
8,00 平群島を左に見る辺りで西下(下関方面に向かう)の大型貨物船に遭遇する、
   二隻ヨットは暫しスピードを落とし、頭(船首)を大きく右に振り(転舵)
   貨物船に道(航路)を譲る、 ヨットは貨物船の通過を確認した後左に転舵
   し再びスピードを上げ本船航路を横切る。
8,15 風が少し強くなったように思う、朝霞も次第に晴れている様だ。
8,50 沖家宝島〔オキカムロジマ]が、かなり、はっきりと見えるようになった。
   CareFree号とGreenWich号は互いに近寄りながら写真を撮りあう。
   目を転じて安下庄港の方を見れば其の港は霞の彼方で全く見えない。
   沖家宝島の南方沖には「センガイ瀬」が有りGPSが危険信号を発している、
   君子危うきに近寄らず、沖家宝島に近よるようにセーリングする。
10,30 二神島(クダコ水道の西の入り口にある島)が眼前にはっきりと姿を現す。
   これから二神島を北から回り込む様にして、クダコ水道に入るのであるが、
   特にクダコ水道から出てくる〔西航の〕船舶に注意しよう。
10,50真右に二神島、左には元怒和島の灯台、正面には「クダコ小島」が見える。
   クダコ小島の南西の「瀬」で多くの漁船が、単独又は5〜六隻の集団で操業
   をしている。此処でこの様な多くの漁船を見るのは始めてである。
   さて、クダコ小島を右に見て進むか?左に見て進むか?「思案のしどころ」
   であるが、兎に角CareFree号の後を追随する態勢を保って進む。
   CareFree号の方でも、どちらのコースにするか?迷っている模様である、
   航跡を見れば其の思案が手に取る様に判る。
   結局、流船群を避けてクダコ小島を右に見て進むコースに決定したようであ
   る。 GreenWichも急いで其れに追随して進む〔東上する〕。
   左後方から東上する貨物船が追い越していく、今度は左前方から西下の貨物
   船が二隻あいついで近ずいて来る。狭い水道を(流峡を)貨物船が3隻と
   ヨット2隻が行き交うことは大変だ、、、と思ったが、実際に行き交ってみれ
   ば、海は狭いようでも結横広い、と実感する。
11,40 クダコ小島が遥か後方となる。次の目標は斎島(イツキシマ)である。
      船速  6,2ノット 順調  順調。
「参考」釣島水道の潮流。
      転流時      最  強  時
      6時36分   9時28分  十1,6ノット
     12時00分  15時22分  −3,0ノット
               十印は北東流を示す。(東へ流れる)
               一印は南西流を示す。(西へ流れる)
   二隻のヨットは互いに右になったり、左になったりして連絡を取り合いなが
   ら一路斎島に向かう。
         一次ページヘー
       (写真は、斎島へと急ぐCareFree号、)
GreenWichから斎島に電話をして入港の事前連絡をする。
15,40 斎島が目前となる。風は西南の追い風、風力は弱いが、セールは機嫌よく風を孕んでいる。
CareFree号と相談の結果、斎島への入港は経験のあるGreenWich号が先導することに決まった。
斎島の港は島の北側にあり普通北側からダイレクトに入港するのであるが、今日は次のことを考えて、少し遠いが南から東側に迂回して入港することにした。
   1)風向きを考えると、セールの降帆作業は島の東側で行うのが
     ベターと思う。
   2)島の南と東側の状況は誰も知らないので今後の参考の為其れを
     把握しておきたい。
   3)上記の事情に加え、相当時間の余裕が出来たので実行したい。
16,30 斎島〔イツキシマ〕港到着。
   連絡所、 あびの里いつき
     「研修宿泊施設で 温泉、食堂、あび資料展示室などを管理」
        Te1  08466−8−3500
   〔写真は桟橋から眺めた「あびの里いつき」の諸設備〕
       別府ヨットハーバー 出発時刻  午前O時O分
       斎 島       到着時刻   16時30分
                 所要時間   16時間30分
                 走行距離  約82マイル
                 平均船速    5ノット
       クダコ水道を過ぎてからの逆潮が影響して船速が低い。
    既に、1隻の小型木造運搬船が係船されていたので、2隻のヨットはその
    船に頭を並べ、横付けで係船する。
    早速、事務所(あびの里いつき)に到着の挨拶に行く。
       温泉の情報を間くと、17,00までは  小浴場
                 1 7,00以降は  大浴場
       私達は5時以降の入浴と決める。4人は船上でコーヒータイム。、
「余談」島の老人から、此の島は昔は由緒ある島であった、と聞かされたことがある。
   どのような由緒か?判らないが斎(イツキ)の字から察して何となく判る様な
   気がする。「斎」の字を辞苑で紐解けば次のように書いてある、
      1)斎の宮=天皇即位の時、伊勢神宮や賀茂神社などに奉仕派遣の未婚
            の内親王または女王。
      2)斎女=神々に仕える少女。(春日大社、大原野神社、松尾神社等に)
    さてCareFree号の大村さんは「古典」に詳しく、目下或る新聞に『古代の
    備後海道」と題して古典(超古典)を引用しながら長編執筆されている御仁
   であるので、「斎島の由緒」を解く足がかりが得られる?かと思っている。
、歓談中に、又ヨットが入港してきたので係船の手伝いをする。同じように横
 付けで、、、。そのヨットは(34フィート?船名失念)高松ヨットハーバー
 所属で艇長は「佐々木さん」、子供を含めて7人乗艇、艇長は大変に愉快な
 御仁であった、聞けば四国一周の帰りとの由で、此処で美味しい食事を取り、
 3曰振りの風呂(温泉)に入り、今夜は今治泊、明日高松に帰港とのこと。
 話を総合すれば5〜6曰で四国を一周したことになる、其の曰程に興味を持
 ったので此処に記録する。
(斎島到着後コーヒータイム、休憩するCareFree号艇上の大村、山崎の御両人)
17,20 上記の高松のヨットの皆さんは入浴と食事を終え、清清しい顔で帰艇、直ぐ
に今治に向け出港される、祈航海安全。
続いて、先着の小型木造運搬船も出港され、残った船は2隻のヨットのみと
なった。4人揃って温泉に行き疲れを流す。
帰艇後、CareFree号に集合、夕食の用意、今回のヨット航海の最終の夕食
となるので、、、と皆さん意気込んで用意されている。私は此処の桟橋に素晴らしい若布〔ワカメ]〔海草]が生育しているのに着眼、其れを馳走とする
ことを考えた。その理由は、
   1)海草の若布[若芽〕は曰本古来より長寿の良菜とされている。
   2)若芽〔ワカメ〕は古代には「和布〔メ〕」とも呼び又「布(メ)」
     とも呼び、其れを刈り取る神事(祭りごと)もあった。
    3)九州関門海峡にある門司の「和布刈神社(メカリジンじゃ)」で
      は、古来より毎年大晦日(旧暦)に海底から若布を刈って神前に
      供える神事「儀式」が行われている。
    4)CareFree号〔艇長、大村俊三氏〕や美帆U号「艇長、山崎雅史
      氏」の所属クラブは「布刈〔メカリ〕ヨットクラブ」、其の名に
      あやかって之を食べればご利益疑いなし、、、
        注記 上記の古代からの物語は能「謡曲」の「和布刈の曲」
           から引用する
 刈り上げた若芽から新芽らしきものを選別している時、散歩中の中年の「
 60歳?」夫婦が近寄ってこられ、話に花が咲く、聞けば此の島の景色
 と食事の味の良さに惚れて毎年定期的に広島から来島(宿泊)する由であっ こ、奥様が突然に「若芽の食べ方、最も簡単で最も美味しく食べられる方法 を伝授する」との仰せ、慌てて息子を呼びニ人で拝聴する。其の話し方から 察するに、料理の研究家?と思われた。
(乾杯、夕食、歓談)
夕食格別の味、又「若芽、簡単料理」の美味しさを知る。
ゴールデンウイーク、ヨットの旅の最後の宿、、、と聊か感傷的な思いで
ベットインしたが直ぐに深い眠りに入ったようである。
5日 06.00 斎島を出港
曇天、今日一目は降雨が無いような空模様である。今目の帰路はCareFree号に追随して新しいコース(GreenWichにとっては)を帰る予定である。
即ち、大三島の東南端から鼻栗瀬戸を通り、岩城島の南を弓削島の北に抜けるヨースである。従って当面の方位を大三島の東南端に定める。
07.00 大三島の南側に沿ってボンヤリと機走のヨットの姿が日に入る、相当に大型のヨットの様である。
08.35 大三島の東南端がはっきりと見えるようになった。先ほど見たヨットは、
そのコースから判断すると宮の窪瀬戸に向かうようである。
08.45 GreenWichは始めて鼻栗瀬戸を通過するのである、CareFree号に追随し
ながら慎重に進み大橋下(大三島〜伯方高間に橋)を通過する。
      船速  7,00ノット
09.00 右に、左にと操舵しながら、無事鼻栗瀬戸を通過する。
宮の窪瀬戸と比較すると鼻栗瀬戸のほうが「えげつない潮流」と思えた。
比較的直線コースである宮の窪瀬戸の方が操舵がし易いように思える。
多々羅大橋を左舷に眺めながら右に大きく転舵し岩城島と赤穂根島との
間を指向する。
09.05 岩城島が近くなった頃前方から中型貨物船が現れる、そのコースから判断
すれば竹原港辺りを目指す様である。
CareFree号とGreenWich号はつかず離れず、順調に車る。
      船速  7,3ノット
写真のシャッターチャンス多い。デジカメの電池切れが悔やまれる。無念。
09.20 岩城島の東南を走行。
      船速  7,9〜8,1ノット
09.40 岩城港を左に眺めながら東上する。
去る4月1日に「美帆U〔艇長山崎雅史氏〕」と一緒に此の島にセーリング
して「桜祭り」に参加した時のことを思い出した。南北4Km強東西約3Km
の小島に、山頂まで咲き誇る桜4千本。
山の名は「積善山」。中国の古歌の「積善の家々、普く〔アマネク]余慶
あり}を思い出す。此の島は工場が多く景気も良いとのことで、外国から多
くの若者が研修生として来日している由。
桜祭りの日には各企業が提供した「マイクロバス」で山頂まで無料送迎され
ていた。素晴らしかった桜見物と頂上からの見晴らしの景色を懐かしく思い
出す。人情も宜しく、一度往けば又往きたくなる島であった。
さて、本論に戻す。
岩城島を右左に眺めながら赤穂根島の北を弓削島に向けて走る。
      船速  7,5〜7,6ノット
順潮の為と思うが良く走る、若し燧灘を通っていたらこの様なスピードは
出なかったあろう、、、と思い乍ら島影を眺める。
時々太陽がが頭を出す事もあるが、概ね曇天、左に生名島、
右に佐島の間を東に抜けた辺りから風が少し出た様である、
真向かいに近い風であるがセーリング技術でスピードを増したい、
との思いでセールを揚げる。セールは気持ちよさげに風を孕んでいる。
10.00 左に大きな橋が見える、弓削島と左島を結石橋である、
弓削高等商船学校の桟橋には練習船の姿が見える。
 5〜6年前にGreenWichは許しを得て、あの桟橋で休憩した事を
懐かしく思い出した。
弓削島を右に見ながら進むにつれて、左に日立造船所の
巨大な施設が目に飛びこんでくる、船台の建造中の船、
進水後の偽装中の船何れも大型船で、景気よさそうに見える。
10.30 いよいよ、三原瀬戸を西から東へ横切るコースである、GreenWichは
CareFree号の後を追いつつ横島の北端を指向する、
11.45 右手の眺めは既に横島を過ぎ田島の北岸である、
田島はCareFreeの母港があるので、次第にお別れの時が近ずいている。
田島と本土(常石側)との間に架かる橋(内海大橋)を目前にしてCareFree
号は帆を降ろされる、いよいよお別れである。橋下を通過後双方手を振りつ
つ別れの挨拶をする。楽しいクルージングでした、お疲れ様でした、
ありがとう御座いました、、、と。
さて、此の橋〔内海大橋〕に関する特徴を記録しよう。
   1)普通、橋下を通過する時は、中央部が安全で両サイドは危険と
     言われているが、、、。
   2)此の橋は其の反対で、中央部は広い浅瀬があるため最も危険であ
     る。
   3)GreenWichが此処を通過する時は田島寄りのアーチ型橋梁の
     下の安全海域を通るようにしている。
CareFree号と別れ単独となったGreenWichは急ぎ「阿伏兎瀬戸」に向かう。
その瀬戸の手前には漁師の網と思える多くの浮標が目に入る、
それに注意しかわしながら瀬戸を通過する、沖に大きく出て頭を東に振る
「転舵する」。
白石島と北木島の間を東に抜け下津井を目指すコースを選ぶ。
    方位   95度
    船速   7,2ノット    風と潮  順調、
12.00 風 強弱、安定せず。
   船速も  6,6〜7,2ノット と忙しく表示が変わる。
12.15 走島東方沖の浮灯台を右に見ながら通過する。
12.30 福山港入港用の航路標識の先端にある「城出し浮標」を右に見て走る。
潮流に乗り順調である、
12.50 梶子島を真右に眺めながら通過する、眼前に白石島と北木島との間の海路が見える。
GPS表示の「暗岩」[今日は潮が高く岩は見えない]を左に避けながら慎重
に進む。
13.05 白石島と北木島の中間水路に突入する、
     船速  6,9〜7,00ノット
     時々  8,1〜8,2ノットの表示もある、
島影を眺めていても早いことがよく判る、順潮で早い速い。心中拍手。
13.15 中間水道を完全に抜ける。
下津井に向け右に大きく変針転舵、方位を89度とする。
     船速  7,4〜7,6ノット
いよいよ水島灘である、セールは充分に風を孕んでいるが
水島灘に入るに従って船速が落ちた様な気がするが、
GPSを見れば7ノット前後の船速を保っている。
13.45 薄日が差してきた。
前方から大型貨物船が現れる、此の儘直進すれば衝突する危険があるため、GreenWichはスピードを落とし、大きく右に転舵して道を譲る。
GreenWichは安全を確認して再び、コースとスピーを元に戻す。
14.30    船速  7,7ノット
六口島の西側が近くなってきた、此の島を右に見て進む予定であったが、
大型船をかわす内にGreenWichのコースが南にずれたので、予定を変更し
て、六口島を左に見て下津井を目指すこととした。
     船速7,8〜7,9ノットを保っている。
15.05 下津井大橋の下を通過している。
前方から貨物船が来たのでGreenWiehは右に転舵して
貨物船を左に眺めながら進む、橋の直下近くでは速い潮流に乗り
船速8,8〜9,2ノットを記録する。
橋下を過ぎてから、時折、強い突風を受けるようになった、其の影響で艇
は大きくヒールし(傾き)海水はデッキに近い(近かったと思う)、聊か驚
く。風の強弱に関係なく常に注意が必要と、あらためて思う。
[メインセールシートのトラベラー操作の迅速〔即時〕対応の必要]
本件は、強い突風を受けた場合の話であるが、トラベラーにシートを固定し
ている場合などは特に必要と思う。判っては居るけど、、、あえて記録する。
瀬戸内海をセーリング(帆走)する場合、その風態(吹く風の色々の状態)
の突然の変化に悩まされる事が多いが、其れは当たり前のことで、常に
心して操船しなければならない、とあらためて思った次第。
15.40 遠くに見えた母港「日比」は次第に近くなる。興島方向から近づいてきた
貨物船が渋川沖で停船し錨を降ろす、連休の為荷卸しが出来ず沖泊か?と
思いながら眺める。
一次の写真、下津井沖を過ぎてから「やれやれ帰って来た」と艇長の安堵の顔。
16,00 母港日比の桟橋(ポンツン)に帰港係船する。
     斎島港    出発時刻    6時OO分
     向日比    到着時刻  午後4時00分
            所要時間   10時間
            走行距離  約6 2,5マイル
            平均船速    6,3ノット
天気予報は次第に悪くなると報じているが曇天の内に帰港できて幸いであ
った。船内整理、コーヒータイム、雨が降らないうちにと、、、家路を急ぐ。
「余談」
  さて、帰宅した其の夜は猛烈な豪雨であった、若しゴールデンウイークを
  目一杯活用し、最終コースを夜航とするなどの計画にしていたら、
  大変な憂 き難航であったろう、、、、と思いながら豪雨の音を間く。
文中スペース等の関係で挿入できなかった写真を次に掲載し、思い出の糧に加えたい。
1)次の写真は11ページの15,00に関連。
       (三原から遠征の二隻のヨットのメンバーと記念撮影。)
     其のメンバーの中に私が現役の時勤務していた会社と同じ会社に勤
     務されている御仁が居られたので、懐かしい思いで写真の輪に入る。
     其の方は三原製作所勤務で私とは、年代も異なり勤務場所も違うので
     あるが、、、、、不思議なもので同じ会社というだけで懐かしさが沸く
     ものである、暫し歓談、話は尽きず。
       一祈る、三原製作所の発展と後輩の御健勝御活躍−
おわりに
 1)当初の計画は4月28日〜5月6日であったが、実際には4月28日〜5月5日の
  クルージングとなった、此の程度の日数では通常1日位は降雨又は異常気象に見舞
  われるものであるが、今回は全日程を通じて好天に恵まれ平穏な航海ができ、幸い
  であったと思っている。
     只、航海記冒頭の4月22日に雨天の航海であったと記しているが、之は
     GreenWichの艇長の勤務の都合で4月28日(27日の深夜)に出発でき
     ず、巳む無く1週間早い4月22日にGreenWichを大崎下島まで回航する
     羽日になったが為であり、この日の天気は論外と考えている
 2)。特に、九州での三日間のドライブ観光時の好天は有り難かった。天気予報では
  半分は雨と報じていたので、其の喜びは一入《ひとしお》であった。
 3)昨年の「ゴールデンウイークヨット航海記」の作成時は、パソコン操作は全くの
  素人で只只夢中あったが、今回は少し馴れた様に思える、然しまだまだ初心者の域
  を出ない。一番困った事はパソコンに向かって30分もすれば、睡魔に襲われる事
  である、其の為遅々として稿が進まず、この点が一番の難行であった。
  見苦しい所が有ればその為と解釈賜り、ご判読下さる様願います。
 4)同行二隻の、ヨット航海記であるが、筆者が乗艇のGreenWichを中心とした記録
  になった様な、きらいがありますが、其の点ご容赦願います
 5 筆者、夢を見ました。それは二隻のヨットが伊予灘で、セーリングする模様でした。
  即ち。    「四面水平線、やや強いが安定した風が吹き、
           二隻のヨットはフルセール、15度程度にヒールして、
              走る、走る  勇壮に。」
    実際の模様は航海記に掲載の写真の通りであります。
         我は海の子しらなみの
            いざCareFreeを乗りいだし
               いざGreenWichに乗りくんで
         我は拾わん海の気を
               彼も拾わん海の幸
 6)今回の二隻同行クルージングは、四国御遍路の「同行二人」の意に通じたものを感
  じ、大変に心強く楽しいクルージングでありました。
  御疲れ様でした、ありがとうございました。
                                     以上
    作業終了、プリントアウト日2007、6月10日、
                (暦を見れば時の記念日なり)。