お久しぶり!! 
        
と言うより長い間旅の連絡書かずに申し訳ない。

ここは、ボルネオ島の北西側にあるSABAH州の州都KOTA KINABALUのSutaraHarbar(スタラ ハーバー)と言うリゾート地。ゴルフに大型ホテル、ビラやペンション、テニスコート、大小5つもの大型プール、広大な敷地の庭園は手入れが行き届いた花壇等、ボルネオ島最大のリゾート地。多くのヨッティ達から「とってもいい所」と聞いていたが本当にきれいなマリーナである。今まで多くのマリーナに着けたがここが一番綺麗では無いかと思う。

マリーナ内の水も透明度が高く、水深5mほどあるのだが、底まで見え、ホテルとリゾートの前から朝8:00〜夜8:00まで1時間に1本の割合で町にある大型ショッピングセンター4箇所を巡る無料の大型バスが毎日巡回していてとっても便利がいい。殆どすることが無い私はこのバスで毎日のように街の中をぐるぐる回り眺めているのが日課のようになってしまった。街の大きさは,旧大分市内ぐらいの大きさで建物は12,3階から15,6階までの高さでかなり都会の様子を呈するが、各交差点に信号はあるのだが、横断歩道というものが殆ど無い都心部に手押しボタン付きの歩道があるので押しても8分程待たなければ青にならない。その為か? 皆信号無視で渡る。そして、何処でも渡るのだが私は買い物袋を下げ日傘を差し、信号無視で"スタコラ"渡るのだ。街は比較的綺麗で人々もフレンドリー。同じマレーシアでもランカウイの人々とはずいぶん違って感じるのは私だけか? 街の外れ、マリーナに近い方に水上生活者のスラムが見える。今はこのスラムの水が海に流れ込まないように堰き止め、周りからの開発が進み、この大きな池をじわじわと埋め立てて行き"兵糧攻め"じゃないが、出来るだけこの中の人の生活を困難にし少しずつ追い出す仕掛けらしい。この中の水はまったくの汚水とゴミで水面が見えないほど凄い。そのすぐ横に新しく建設中のビルの基礎の杭が立ち並び,その中をゴミが風に舞うようにまるで映画の「ゲッタウェイ」のシーンを思わせる。

ホテルの従業員で案内カウンターで働くポリーンさんと仲良しになり、インターネットの案内やプールへの案内など色々気を使ってくれる。船にも度々友達を連れランチにも訪れたポリーンさん(女性29歳)マレー人だがキリスト教でと言っていた。この次フィアンセを連れてきてイイ!! と言うので「OK OK!」「いつ結婚するの?」と訪ねると『今年の8月に』と言うことだ。さっそく翌晩(7日)彼を伴って夕食にやってきた。なかなか真面目そうな青年で歳は32才と言う。外国人相手の登山"トレッキング"をしているとかで、英語は彼女より良く通じるのがうれしい。私への土産と言ってマレー山岳地方の民族舞踊Bamboo Orchestra(竹竿のダンス)のCDを持ってきてくれた。彼らの故郷キナバル山(標高4,095.2m)の南側の中腹で自然の動植物がとっても"スバラシイ"と力説してくれた。私の方も稲荷寿司やホウレン草の胡麻和え等,日本食を出すと稲荷が気に入ったのか二人ともたくさん食べてくれ「こんなにして貰ったのは初めて」とすごく喜んでくれた。そしてせっかく知り合えたけれど8日の朝には出港すると告げると、彼らは仕事で見送りにこれないと気の毒そうに言う。私は「大丈夫、大丈夫!」 彼女も彼もこの大丈夫は分かるのである。翌朝8日給油ポンツーンに行き、770リットルをいれ満タンにする。1リットル2.56リンギット(約90円)さすが産油国、安い! マレーリンギットが42RM残っている。給油ポンツーンのすぐ前にあるホテルの売店でTシャツ1枚、39.90RMを買い、マレーシアと別れを告げる。

4/8(火)10:00出港。晴れ。気温32゜ NW風8.5ノット向かい風ポート38〜40゜機帆走フルセール、エンジン1800rpmで7.5ノット。ボルネオ島の最北端Kudat(クダット)を9日の夜明け前04:00に交わし夜明けには国境のグレートデンジャーバンクに差し掛かり、その名の通りもの凄く危険な所で浅瀬の中を縫うように走る。昼前には、このバンクを通り抜けることかで来た。本来ならば、Palawan島の西側、南シナ海を走り、スービックに入ったほうが150マイル程近くなるのだが、いろんな情報からするとPalawan島の半分より北側は危ないとか? 時々海賊が出没するとか? 少しでも危ないところは避けたほうが良い! 1日余分に走れば済むのだ。フィリピンPanay島の中部を目指し、SULU SEAを直走る。10日の夜頃からしけられて船は何処も潮垂れている。一晩中スプレーを浴びたせいか何処も彼処も潮だらけ途中妙な海面が3箇所ほどあった.風は殆ど無く、時折波だけが2m以上も湧き立つ。たぶん潮目だろう? 然程たいした事も無く11日朝8:45目的地のPanay島南西側BAN JOSE DE BUENAVISTA の入り江の港に着いた。港と言っても桟橋が1本あるだけ、それでもフィリピンでは桟橋の有る港は滅多に御目に懸かれない。ここは3年前南下するときにも一度立ち寄った場所だが桟橋を見ると1棟程大き目(2階建て)のビルができていた。わずかばかりの入り江の左端の方に錨泊しようとアンカーを落とす。この様子を陸から見守っていた住人や漁師らが次々に船の傍にやってくる。地元の人たちも近寄るのだがシャイで手を振ったり目を合わせたりはなかなかしてくれない! 中学生くらいの少年がアウトリガー付きのポートでやってきた。人がやっと乗れるくらいの幅しか無い細いボートの舳先に3才にも満たない小さな子供が顔を出していて、大きな目を"くるくる"させている。少年は私に「陸まで渡すけど行かなくてもいいか?」と聞いてくる。私は「No Thank you!」と言い断る。そして、小さな子供にゴム風船とキャンディを渡してあげる。子供はとってもすばらしい笑顔を残して帰っていった。

この後、ビールを頂、昼過ぎまで寝た。

4/12(土)05:00出港。快晴。まだ薄明るい中を出港。漁師らが漁を終え次々と帰ってくる。そしてどうしても私の前を横切るのだ。この漁師と言う人々は世界共通なのか、ポリネシアやニューカレドニア、東南アジア、そして日本何処に行ったも必ずと言っていい程進行方向を変えてまでも、直前を横切る。しかもポートもスターボも全くおかまいなしである。もう私の前を横切った漁船は60隻を越えた。私の後を通った船は1隻も無い。私も避けるのを諦めオートヘルムに切り替えひたすら北上を続ける。右手にPanay島を眺める。あらら、こちらから朝餉の支度だろう。各処に煙が立ち昇る。私がまだ子供だった頃の風景のようだ。昭和27,28年頃だったと思う。家庭電化製品という言葉と共に各家庭に電化製品が入りだした。我が家でも一番初めに入ってきたのは電気釜だつたように思う。このフィリピンの海岸線に点在する村々にはまだ家庭電化には程遠いのかも? 弱い東風を受け、機走で6.5〜7.5ノット波の無い海を久しぶりに走り、12日(土)16:00Panay島の北西BARINGAま入り江に着いた。この入り江も3年前に寄ったところで様子は分かっているつもりだが、余り岸辺近くには近づかないほうがいいだろう? 近づきすぎるとなんとなく不安になる。気のせいとは思うが、やはり用心に越したことはない。ヨッティ同士の宴会の話で、彼らが1日目は遠く様子を伺い、2日目で傍にやって来て、様子を伺い、3日目に話しかけて人数を確認し、4日目に襲ってくるぞ! と言い。長くても3日までだぞ! などと冗談とも本気とも思えない会話を交わすのであるが、とりあえず私は側を通る漁船に手を振る。彼らにしても私のことをおっかなびっくりであろう? 

13日(日)06:00出港。2時間ほど走ったボラカイ島の南あたりから天気がおかしくなり始め、次第に波も大きく風も出てきた。ボラカイ島の北からの潮流と風の向きがぶっつかるのか大波が湧き立つようになり、風も益々凄さを増してくる様子。何処かに避難しなくては! 海図を広げて避難場所を探す。幸いボラカイ島の約25マイルのところダグラス島の南に南北10マイル東西6マイル程の湾があり中型船などの避難港になっている。逆潮の中4時間程掛けてこの湾、Cool Bayに入ることができ、湾内左側の北に位置するところが浅瀬になっている。水深6〜7mの所の砂浜にアンカーを落とすことができ、事なきを得た。 (12゜15'440"N 121゜58'740")この広い湾内の南の方が中型船等の泊地になっていて40〜50mの水深があると海図に示してある。ここでも漁師らの船が側を通るのだが、なかなかシャイでこちらを見ているのだが側に来ると見ない振りをして通り過ぎる。この湾に2日間避難していたがとうとう一度も手を振り合うことができなかった。

4/15(火) の朝、昨日よりは少し良くなったような気がして待ちきれず、07:00出港する。幸い東風陸風で余り波も立ってない、ジブのみ揚げて機走2100rmp8〜9ノットで走る。
4/16(水)明け方からプエルトガレラ沖のチャネルに差し掛かり出した頃から汐に乗り始め04:00〜07:00頃まで10〜11ノットで走り続け、16日11時にスービックベイのマリーナに着くことができた。

結局この28時間で200マイルを走った。入港しクラブハウスへ行って分かったことだが先日の時化は台風1号だったそうだ。ちょうど私が走ってきたコースを通って行き、この時季の台風は珍しいとハーバーマスターが言っていた。そして、次にフィリピン名物の入関手続きである。カスタムの40代の役人が首謀格の様でその場を取り仕切るのだ。後のクアランティー、イミグレ、と三人でやってくる。そして、出国はどうするのか? と聞いてきて、私が入国も出国もここですると言い、出国の際クリアランスがいる! と言うと「OK! OK!」 その場で入国・出国両方の書類を作ってくれ、パスポートにもスタンプを押してくれるのだが手渡してはくれず、ワンパーソン100$しかもUS100$と言う。「Why?」という私に「enter fifty!」「exodus fifty!」何と入国に50$ 出国に50$と言い全部で300US$を要求された。何を言おうが知らん顔で取り付く島もない。仕方が無い300$を渡すと直ぐ様パスポートとクリアランスを手渡してくれ、船の中は一切調べもせずサッサッと帰っていき、マリーナオフィス建物の裏側に周り、ここのスタッフにも少しばかりお裾分けがあるのだ。そして、1時間程するとスタッフが2,3人来て舟の掃除屋さんは要らないか? ハルを磨かないか? と聞いてくる。私が「水面から上全てを磨いてくれ」と言うと、「明日3人来る3,000ペソ」と言い、私もOKした。そして帰りにスタッフの一人がそっと「カスタムにはいくら払ったか?」を聞いてくる。彼らもいったいいくら払って自分たちの分け前がいくらか知りたいらしい。私は言葉が分からない振りをして肩を竦めるゼスチャーで誤魔化しておいた。

この国の役人や政治家などの手癖の悪さが治らない限り,いつまでたっても本当の意味でも繁栄はないだろう。それが証拠に港内の彼方此方で密輸船やコンテナ船が密輸品の荷揚げを平然と行っている。彼らが私と同じ300$で検査は全く行われないとの事だ
翌日船の掃除に3人のフィリピン人が来た。一人は「アローン」と言って、3年前にここで出会った若者だった。ハルとデッキ、スタンションやレーダーアーチなどを全て磨くのに3人で2日掛かった。このマリーナも3年前より何処となく船の数やペイドクルーの数、そしてスタッフの人数も少なくなったように思いアローンに聞いたがマリーナの値段が少し高くなった為船の数が減ったのだと言う。しかし、どうも少し違う感じでなんとなく寂れた様だ。しかし、外の港内には3年前より貨物船の数も増え、コンテナヤードや穀物サイロなど大型施設等多くが建設されている。何よりも大きな施設は今建設中の韓国企業の「韓進(ハンジン)海運」で、造船やドックを手掛ける企業で凄しい大きさの大工場でこのスービックの国道沿いのレストランなど、殆どのレストランが韓国料理の店に模様替えされて,何れもハンジン関連の人で繁盛してる。歩いているのも韓国人、3年前に比べると考えもしなかった程多くの韓国人を見ることができる。

18日私の並びに入ってきたヤンマーのボート43ftを見ると、大阪府と書いていて艇名はLuciyと言う。先方も私の船の「風来末」の文字を見て「日本の方ですか」と声を掛けてきた。「ハイそうです!」話は一気に盛り上がり、「立ち話も?」と言うことで私の船のコクピットでビールを酌み交わしての雑談.入港来の役人の「袖の下」の話をしたところ「本当ですか?」彼はこの国もお偉いさんにも顔が効くらしい高橋さんと名乗りマニラで携帯電話の部品を作る会社を営んでいると言う。それとこのスービツクに介護施設もやっていて、多くの日本人養介護者もいると言う。色んな人がいるものだと私も驚いた。高橋さんから翌朝人を迎えに寄越すから朝食でもと誘われた。

翌朝、介護施設から山本さんという方が迎えに来て施設の方へ行き、朝食をご馳走になった。高橋オーナーが言っていたように文字通りの日本食で鯖の塩焼き、鹿尾菜(ヒジキ)の煮物、烏賊の塩辛、冷奴、納豆、梅干、沢庵漬け、竹の子の煮しめ、大根おろしに味噌汁と朝から中身の濃いこと、この施設は旧米軍将校クラスの住居跡を利用したもので、一戸建て住宅にそれぞれの日本人養介護者が暮らしている。この食堂兼トレーニング所に動けるものは出かけてきて食事をするとか。そしてフィリピンの若い女性たちの介護の研修・育成もしていて、日本からの介護指導者や日本語の先生などを招き介護全般に及ぶ専門教育も行っていて多くの介護士を日本に送っているとか。私を案内してくださった女性も日本の岡山県の施設で2年間の教育を受け、日本語は殆ど理解でき、新聞も読むことができる。今は日本語の2級だけど今年中には1級に早くなりたいと目を輝かせて、笑顔で話してくれた。そして、夕方もお迎えにか上がりますと、山本さん、「お風呂の用意しておきますから!」と一瞬耳を疑う言葉に「エッ お風呂ですか?」こんなお誘いを断るわけは無いとばかり「ハイ! 有難うございます!」 一度船に連れて帰ってもらったものの早く迎えが来ないものかとソワソワ昼寝もできない.4時過ぎに先ほどの女性と運転手が迎えに来た。待ってました! とばかりに飛び出しオフィス横の駐車場までスキップでもしたい気持ちで飛んで行った。今日の夕食は広島風のお好み焼きだそうで、さっそくお風呂へ「ザブン」人が10人ははいれると言うような大きな風呂、しかも一番風呂だ! 2年ぶりの湯舟に漬かり,手も足も"伸び伸び"だ。速く上がるのが勿体無い! 1時間近く入り、大満足。湯上りと同時に冷えたビールが待ち構えて、何とも申し訳ない気分で一杯だ。お好み焼きを頬張っていると3人の日本人が私のテーブルに来て挨拶を交わす。介護士の教師と日本語の教師だという。その中の一人白井さんは別府のヨットハーバーに居た積水ハウスの松尾さんの知り合いだという。村田さんの話も飛び出し縁とは異なものと改めて思う。この夜は8時まで話が盛り上がり山本さんに船まで送っていただいた。このスービックには約2週間の予定だがもし天気がよければ早く出たいと思っている。毎日暑い日が続く、日中は37゜もあり、炎天下では40゜をオーバーする。朝まだ09:00というのに私は全身玉のような汗、何をするのも汗、汗、汗である。以前訪れたとき知り合いになったペイドクルーのJoy、彼は2年前に結婚をしたとかで、奥さんを連れて挨拶に来た。Olongapo(オロンガポ)の街中のローカルマーケットへの買い物はいつもこのJoyに連れて行ってもらう。インサイド(マリーナ側)からアウトサイド(フィリピン人住居地)へのゲートをパスポートを見せて通る。Joyらフィリピン人は首からIDカードを掲げてこれが無いとゲートを通過できない。ゲートにはマシンガンを手にしたMPが2,3人いてチェックする。Olongapoの町に入った途端様子は一変する雑踏の中ジプニーや輪タクが押し合うかの様に行き交う。そして赤、黄、青、オレンジのジプニーが色分けされている。それぞれの巡回コースによって色分けされていて、赤なら市内の近い所をぐるぐる回る為そのまま乗っておけばもう一度元に戻ってくるので心配が無い。車はダイハツや三菱の軽トラックを改造したもので合図さえ送れば何処でも乗れ、何処でも降りることができ、料金は一回7.5ペソ(21円)。ローカルマーケットで野菜や天ぷら,鳥肉,魚などを買う。このローカルマーケットは東南アジアには何処にいってもあるのだが、慣れないとなかなか買えない。私も随分と慣れたつもりだが、まだ肉(牛、豚)は買うことができない。見た目のグロテスクさもあるのだが,何と言っても凄しい蝿の数に驚いて一瞬仰け反ってしまう程で、この日も、鳥肉しか買わなかった。荷物は全てJoyがporterしてくれる。帰りは輪タクに乗る。荷物が多いのでジプニーには乗れない。輪タクには3人まで乗れるとJoyが言う。これも何処ので行っても(市内)50ペソ(140円)でゲートまで行き、ここから、インサイドまで入ることができる。ライトバンのタクシーに乗り換えマリーナまで10分で着く。やはり50ペソ。

4/25(金)今日は私の船で夕方6:00からパーティだ。私の十八番の稲荷寿司に鶏の唐揚、小蝦の掻き揚げ、野菜サラダ、パーティが始まり1時間もした頃? 「どうしたの?」皆さん余り食べない私が「eat eat」と言って進めるのだが、余り食べない。アローンやジョイに聞いてみると、フィリピンの人は夜は余り食べないのだと言う。朝食は沢山食べるが他は少しだという。成る程それで分かった介護施設での朝食の多さと、夕食にお好み焼きというのがやっと分かった。

翌日、また山本さんが誘いに見えて「今日は高橋オーナーが帰ってこられるので夕方から施設でパーティです。ぜひあなたをお呼びしろといわれています。」さっそく連れて行ってもらい、又、又、一番風呂に入れていただいて、手足伸び伸びです。湯上りのビールも頂、食堂や庭でバーベキュー、焼き鳥! それも葱間です。パーティも進み夜8時過ぎにやっと高橋さんとご親戚になるという日本の岡山県からの衆議員夫妻、そして今日の主賓であるOlongap0の市長夫妻がみえた。この市長の長兄がフィリピンで21人しかいない議員さんだとか、施設のフィリピーナはみんな感激して、総立ち、拍手が沸きあがる。ここまで市長を連れてくるには? 高橋さんの実力が伺える。夜11:00近くまでパーティは続き、市長の退場でお開きとなり、船に送ってもらう頃には12:00前だった。毎日のようにインターネットで天気予報を見ていたのだが、やっと巴士(バシー)の風もやや治まり5月の5日頃まではよさそうだ。よし、明日出港しよう。ただ、台湾のほぼ中央付近に中国大陸から太平洋まで長く延びた梅雨前線が多少気になるが、この時を逃しては、またいつ出港できるか分からない。

4/30(水)晴れ。NW10ノット弱、朝09:00カスタム、イミグレ、クアランティ夫々来る筈がやはり遅れて9:40頃ようやくイミグレが来て、パスポートにスタンプを押す。そして本来カスタムの仕事のクリアランスへのスタンプもイミグレがしてくれた。あの首謀格の男はお金が入らないので来ないのだろう。そしてこのイミグレの男は始めてみる顔で、私に「50$よこせ」と言う。「No!」「Pay want!」通じたのかどうか分からなかったが携帯電話で誰かとやり取りをしている。少し怒った様子で話しているのが分かったのだろう。私に「OK!」と言い、手まねで行って良いと言っている様だ。そして、クリアランスにもスタンプを押してくれやっと出港できる。Joyと奥さんが見送りに来てくれた。僅かばかり残っているペソをJoyに渡してあげ、「I hope t see you again!」と別れを告げ、奥の深いスービックベイを後にする。

台湾の南端墾丁(カンティン)国立公園内、後壁湖(ホービーフー)遊艇港が正式名で、この後壁湖漁港と隣り合わせにマリーナがある。スービックからは430マイル程ある。3日の予定だ。わずかに東風がある中機走で真北に向かって直走る。

5/2(金)の夕方頃から徐々に荒れ模様になりだし夜には20ノットオーバーまで吹き上がる様になり、波も大きく真上り,襲ってくる波でピッチングも酷く,バウのフォクスルにつんでいた缶ビールのケースが暴れ出し、次に薬箱、衣装ケースの引き出しが抜けるやらで、もう手が付けられない。幸い濡れることはなさそうなので、そのまま走り続けることにする。これ以上時化ると危ないが、朝方雨がぱらつき出した頃からやっと巴士海峡を抜け、墾丁の入り江が見えてきて、見覚えの有る原子力発電所のドーム2個と風力発電の風車3基が見える。真北の風でこの入り江に入ると風は強いのだが波は殆ど経たなくなるのがいい! この場所はGPSと大きく異なりGPSには後壁湖の港は示されていない! この港口は左に発電所から流れ出る河があり、右側にはグラスボートが繰り出す浅瀬がある為、とっても入り口が狭い。3年前に入ったときの資料を出し、これに従った入る。21゜56'608"N 120゜44'336"E地点から約330゜を見る。港口の灯台が左右にありその中心の陸地に中国寺が見える。この中国寺を正面に見て入ると良い。小さな灯台を入って直ぐ右に台湾コーストガード海巡隊の建物がありこの前の桟橋に多くのタイヤが下がっていて、オレンジ色の制服の係官が数人見える。まずここに一度寄らねばならない。クルーリストがいる。そして、その後右側のマリーナに入る。マリーナの建物の正面に並ぶ半潜艇グラスボートが並ぶ中どれか空いている所でイイ。私は前もってマリーナにFAXを入れたので、ハーバーマスターやスタッフが待ち構え舫いを取ってもらった。マスターもスタッフも3年ぶりでみんな懐かしい。皆が「再会(サイチェン)」と喜んでくれる。そして建物の奥から「シャノーン」が大きなお腹を抱えて走ってきた。飛び上がって喜び合い、抱き合って喜んだ。「FAXを貰った時びっくりしたよ!!」と言っている。マスターとシャノーンは2年前に結婚したそうだ。何時、誕生!と聞くと7月には生まれる。男の子だそうだ! 午後からマリーナ側にある魚介類のマーケットの魚屋さんの黄さんら三姉妹に会いに行った。お店のほうは以前より少し広くなり、前は魚だけ売っていたのに今はテーブルを7,8台設けて食べ物やさんもしてる。長姉の黄さんが私を見付けてビックリ!! 飛んできて抱き合う! 後の二人の妹達も直ぐ気が付き飛び跳ねて喜び合う。4人で抱き合い噪(ハシャ)いでいる私たちは何があったかと呆気に取られている。すぐさま空いているテーブルに案内され、夫々のご主人達も加わりお互い分からない日本語と台湾語で喜び合った。こんなに喜んでもらえるとは思ってもみなかった。そうこうしている内に台湾電力に勤める戴國(tai geow)さん夫妻が来てくれ、黄さんのご主人も加わり(ご主人も台電に勤めている)忽ち宴会の始まりで皆さん大喜びでビールがジャンジャン空く。「イェー!」「台湾完杯!!」この台湾完杯は文字通り一気飲みである。日本乾盃は少ししか呑まなくて良い。「ハイ! 台湾完杯!!」と3時間余りも盛り上がった。お店は大繁盛で大忙しだ。4時頃から今度は戴國さんの所へ皆で押し掛け、中国茶も2時間余りに亘って楽しむのだ。お隣の李(Lee)さん夫妻も加わり10人近くで大騒ぎ。このお茶が(中国の)台湾のもてなしらしい。そして夜は、又、又黄さんのお店へと皆で繰り出し宴会の始まりで呑み疲れ,食べ疲れ船に帰ったのは夜10時を回っていた。

本来1週間もしない内に石垣まで渡るつもりが毎日のように風が強く外は白波が立っている。ここは私より前に日本のヨットが入っていて、私の船を見付けて訪ねてみえた。"デヘラー36"に乗る布田さん、徳島県からいらしたとの事で、このマリーナを宜野湾の金城さんから聞いて来たと言う。多分この情報は3年前私からの情報だろう。お役に立てて嬉しい! 布田さんは宜野湾からここまでダイレクトで来たと言う。「お一人ですか!」と私が言うと「そうです」と答える。やはり物数寄はいるものだ。この後、布田さんは日本へ7日の日に帰ると言う。船はここに預けたまま帰る。7日の日の昼食まで夜と昼にと私の船で食事を共にし7日午後帰って行った。7日、8日に風も少し治まり、良かったのだが、天気図を見るとフィリピンルソン島の西北、南シナ海に熱低の強いやつが次の台風になろうとしている。これさえ遣り過せばと思い安易な気持ちで出港を見合わせたのがいけなかった。この熱低が台風3号となり、其の後も次々と台風規模の熱低がやって来て、連日のように吹き荒れる。このマリーナの中で30ノットオーバーの風が吹き、夜はローリングで寝られない夜が続く。その後の、土曜、日曜と台電に勤務するご主人達は高雄へ単身赴任していて週末に帰って来ては私を連れ出し宴会にお茶会に訪ねてくれる。私は毎日退屈していると思っての気の使い様で申し訳ない限りである。そして今日5/17(土)迄出港できない。19日までに残りの2ヶの台風が(,熱低)北上中で、20日過ぎになればと思うのだが、分からない? 
マスターの話では今年は異常気象だ! と言っている。

早く帰りたいよ〜!
次号へ
5/17(土)15:00浅井